家康の腹心として仕えていた石川数正が、秀吉のもとに仕えた。家康は秀吉に従うことへ抵抗があったため、数正の行為は寝返り・裏切りと取れるもの

 

秀吉との戦を考える井伊直政らに対し、和睦を結び秀吉の支配下に入ることを主張していた数正が徳川家中で浮いてしまったための出奔でした

 

秀吉との戦に障害が無くなったことで、秀吉との全面対決・・・になるところで関西を襲った天正地震。これを受けて信雄は家康に豊臣との戦を止めるように進言します。家康は秀吉が和睦ではなく戦を選ぶとし、妹との婚姻を条件に出しました。秀吉からすれば家康が自分に頭を下げれば、天下に権威を示し統一できると考えていたためこの条件を呑み、妹の朝日姫を正室に嫁がせる

 

朝日は農民の娘であったため、瀬名とはまったく違い自由奔放・お転婆に描かれてました。ちなみに朝日姫は家康と同じ年で、結婚から4年後に亡くなっています

 

朝日と婚姻しても家康が上洛しなかったため、秀吉は母親を人質に差し出します。これを受け、側室の於愛と母・於大が上洛して秀吉に頭を下げよと勧めます。また酒井忠次・本多正信らも母親を人質に出して、上洛しなければ秀吉と戦になってしまうと家康を説得。評定では本多忠勝・井伊直政ら武闘派が秀吉と全面対決を主張していた

 

そこに於愛の方が現れ、瀬名が造った大仏像と数正が持ち続けていた押し花を差し出します。押し花は瀬名がいた築山に咲いていたものであったため、数正はずっと瀬名を慕い続けていたと告げます

 

家康は上洛を決心し、秀吉に頭を下げること・朝日が妻であることを伝えます。正室の朝日は家康と子供をもうけることなく、秀吉や家康よりも先にこの世を去っています