順調に成功のキャリアを歩んできた川口でしたが、ようやく掴んだヨーロッパの舞台で初めての挫折を味わいます。
最初のシーズンで11試合に出場するものの、レギュラーに定着は出来ず、翌年はライバルGKの加入もありベンチを暖める日々となってしまいます。
プロ入りでレギュラーを掴んでから、不動のレギュラーとして君臨してきた彼が初めてベンチ要員になってしまったのです。
その後、リザーブリーグ(JでいうところのサテライトリーグやU-23チーム、プロ野球でいうところの二軍チーム)ではコンスタントに出場を重ねるものの、トップチームでは全く公式戦に出場出来ませんでした。その結果、代表でも立場が弱くなっていき、ライバルの楢崎正剛(現・名古屋グランパス)にポジションを明け渡してしまい、生涯の晴れ舞台になるチャンスだった日韓共催ワールドカップでも試合出場はなりませんでした。
しかし、ベンチ生活がたとえ続いても、腐らず練習に打ち込み、リザーブリーグでも出場していたことで、日韓W杯後に就任したジーコ監督(現・鹿島アントラーズTD)により、再び代表の正GKに抜擢されます。
そして、2000年に続く日本代表の連覇がかかった2004年のアジアカップの準々決勝、ヨルダン戦。90分及び延長戦でも決着が着かず、PK戦に突入したこの1戦。
そこで川口は伝説になりました。
先にヨルダンが2人とも成功したのに対し、日本は中村俊輔(現ジュビロ磐田)、三都主アレサンドロが連続で失敗してしまい、絶体絶命の状況に陥ってしまいます。そこでキャプテンの宮本恒靖(現・ガンバ大阪監督)が主審にピッチの状態が悪いと主張しコートをチェンジ。
するとここから川口が、最初のキッカーこそ決められたものの、その後はヨルダンのキッカーのシュートを神がかりな反応でセーブし、その後は日本選手も成功してギリギリで3-3のタイに持ち込みます。
そしてそこから突入したサドンデスでもヨルダンのシュートをセーブし続け、見事、絶体絶命の状況から奇跡的な逆転勝利を日本にもたらしたのでした。
このシーンは、日本代表の歴史に残る名場面として、今でも語り継がれています。そしてその後も終始安定したセービングで、日本のアジアカップ連覇に大きく貢献しました。
この活躍で完全に日本代表の守護神に返り咲いた彼は、続く2006年のドイツワールドカップでもチームは予選リーグ敗退に終わるなど苦戦しましたが、クロアチア戦ではPKをストップする活躍を見せ、日本の国外の大会での初の勝ち点1獲得に貢献しました。
しかし、代表での活躍の一方で、クラブの立ち位置は依然として、困難な立場が続いたのです・・・。
TO BE CONTINUED・・・