爆発が足りない

爆発が足りない

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 なんとなくTwitterなどで見かける話などで興味のある出来事についての個人的な考えを述べるだけの文章です。

 

 日ごろからTwitterいいなあと思いつつ、あんな短文ではまともな話もできんとも思っていたので、個人的名興味を必要なだけ備忘録的に書き記します。今回のテーマは表現規制です。まあ、ポルノとか、ヘイトスピーチとか、そういうところです。

 

 最近だと例の「これ、気持ち悪い~~~」のtweetに始まる一連の流れについて、表現の自由と規制についての個人的な考えをまとめたいと思います。

 

 

1 自身の基本的な表現規制についての立場

 

 まず私の考えですが、原則的にはある表現について、実害(極端に言えば金に換算できる被害)が出ないならば基本的には表現の自由は保証すべきだと思っています。ヘイトスピーチもポルノも、どこかの誰かに対して実害が出なければ問題ないと思っています。つまりは、何かの表現によって誰かが精神的に苦痛や不快感を感じるだけなら、その表現を規制することを正当化することは本来できないと思っています。ただし、もしも精神的苦痛などにより、当人の制御範囲外で実際に健康や身体に害を及ぼすのであれば、それは表現によって発生した実害であり、その表現への規制を正当化する理由にはなり得るでしょう。ただし、単にヘイトスピーチやポルノがなどの表現が人々に精神的苦痛を与えるだけというのであれば、規制されるべきものではないと思います。

 

 

2 実害のない表現への規制の正当化:実害予防

 

 しかし、現在の日本や世界において、実害はなくて精神的苦痛を与えるだけの表現についても、規制は行われています。日本において確固として法制化されているのは公然わいせつなどでしょう。公然わいせつは周囲に対して実害を出さなくても禁止です。これはいかなる論理に基づいているのでしょうか?

 実害の出ない表現への規制の正当化理由は、主に二つあると思っています。まず一つは、たとえ実害がなかろうとも、公共の福祉を阻害する可能性のある表現は規制可能だというものです。これは犯罪予告とかで逮捕されるのと同じ理由で、やばい表現は実害を起こす可能性もあるかもしれないので規制するというものです。戦争ゲームしすぎ、アクション映画の見過ぎで殺人者が増えるみたいな考え方です。

 これについては様々な意見があると思いますが、特定の表現が社会に害をもたらす可能性については、その表現の内容のわずかな違いや社会状況によって変化するものなので、ある属性を持つ表現を一括で規制することの正当化理由としては弱いと思っています。実際には個々の表現を見て、これはOK,これはNGみたいな判断を個別でする形になっていると思われます。それこそネットの危ない書き込みの中から本当のテロ予告を見つけ出すみたいなものです。

 なので、実害予防のために表現規制を行うことは、現在の法制化されている表現規制の正当化理由だとは少し考えにくいと思っています。

 

 

3 実害のない表現への規制の正当化:精神的苦痛

 

 もう一つの実害のない表現規制の正当化理由は、表現によってひきおこされる人々の精神的苦痛を理由とするものです。公然わいせつが違法なのは実害の予防というよりも、こっちが主な理由でしょう。

 さて、私やその他の表現の自由擁護派が単に精神的苦痛のみを理由とした規制を好ましく思わないのは、そもそも精神的苦痛がどうのこうのというのは人々の主観的な判断によってしまうためです。不快感や精神的苦痛というのは一部の人々の主観的判断によらざるを得ないので、精神的苦痛を理由とする表現規制を正当化すれば、究極的にはあらゆる表現が規制されてしまうというものです。

 とはいえ、特定の表現が人々を多いに傷つけてしまう場合があることは確かです。それが当人の健康や資金面に影響を及ぼすことがなかったとしても、耐え難い精神的苦痛を与える表現があれば、それを規制しようと思うのは当然のことです。

 現実には、精神的苦痛による表現規制はあることはありますが、包括的なものではなく、やはり個別の状況に応じてこれは許せる、あれはダメ、、というように判断を下す形になっています。ただし判断基準である法にかなりあいまいな部分があり、ここをめぐって規制賛成派と反対派が争う形になっています。

 先ほども書いたポルノなどについては、公共の場で禁止されている表現は判例からは以下のようになっています。

  1. 徒に性欲を刺激・興奮させること
  2. 普通人の正常な性的羞恥心を害すること
  3. 善良な性的道義観念に反すること

 うーん。あいまいですね。道義的観念とか羞恥心を害するとかありますが、「精神的苦痛を強いるもの」をわいせつ物の文脈に応じて言い換えているだけのようなものです。

 実のところ、定義さえはっきりとしていれば規制反対派はそこまで強く反対しません。児童ポルノ禁止はどうなっているかといえば、

  • 児童の性交やそれに似た行為
  • 児童の性器を触る姿
  • 児童が他者の性器を触る姿
  • 児童の裸または半裸
  • 児童とは18歳未満の者

です。ここまで限定され、定義がはっきりとしていれば、客観的に規制対象を判断できますし、規制反対派としても最大の懸念である主観的、恣意的な判断による規制乱用は抑制できるわけです。まあ、架空の未成年キャラとかはどうなるんだというグレーゾーンはありますが、仮に架空キャラに適用されるならば、児童の判別ができないので個別対応という形になるでしょう。それだと恣意的な運用になるので今のところは架空キャラについては現実に実在する児童をあからさまにモデルにしてたりしない限り原則フリーという感じだと理解しています。

 

 上記の二例は、実害を与えない表現規制を正当化する難しいところがよく表れているものだと思っています。児童ポルノなどは規制内容が表現の中の特徴に対して行われているので客観性も担保されているのですが、通常のポルノは単に表現がエロいだけでは規制対象にはなり得ず、それを見た人々がどう感じるかというのが基準になっており、主観的であいまいです。ヘイトスピーチや種々のハラスメントも同様で、表現内容そのものというより表現に対して人々がどう感じるかが問題になっている以上、どうしても規制基準が主観的で恣意的なものになってしまうのではないかと思います。

 表現規制派、反対派の極端な方は、人々の感じ方という主観的な問題に共通の客観性を見出そうとした結果、あらゆる規制を正当化、あるいは不当化しようという結論になったりしますが、多くの人はもっと良い妥協点を探ろうとしているはずです。

 では如何にして正当化される、あるいは不当化される表現規制を判別するのか、個人的に考えられるいくつかの基準を最後にまとめようと思います。

 

 

4 精神的苦痛のみをもたらす表現の規制基準

 

 まず出発点として、その表現に対して人々がどのように感じるか、という基準は客観性がないため、あまり頼りたくはありません。とはいえ、被害者が被害意識をもっているという事そのものには客観性があるので、表現によって傷ついたと感じる人々がいることは、まず表現規制をするのための出発点になります。だれも傷つかない表現は規制する必要はないという当たり前の話ですね。今回の場合前提としてそもそも精神的苦痛のみ与える場合を想定しているので、本人が精神的苦痛を認識してないが実は精神的苦痛を感じているという状況はとりあえず除外します。(何言ってんだ)

 その後の方向性としては、あくまで主観的な精神的苦痛を基準とするか、あくまで客観的に評価可能な基準を探すかという形になりますが、私としては客観的に評価可能な基準を探す方向性が望ましいと思いますし、今のところはそのような形になっています。つまり、ある表現によってある人が精神的に傷ついたのであれば、その人の状況や境遇を調べ上げ、表現をみたらどのくらい苦しむかというのを第三者視点で推測し、それによって賠償などを決めるということです。

 ただしこの方法では極度に個別事情に特化する形になるため、賠償には役に立ちますが、表現を行う人がどのような表現が規制にあたるかどうか判断するのには役に立ちません。ある表現を見た人々が、彼らのおかれている個別の状況によってどのように感じるだろうかというのをすべて考慮することは不可能です。表現の自由の問題において加害者側に加害意識がない場合は、そういうことです。

 ただし、現在一般的に行われている未成年と成年向けなどのゾーニング規制は一応はこれを考慮した結果になります。ここから先は人によっては不快に感じるものがあるかもしれないので来ないでね、というやつです。ただこれはヘイトスピーチなどには対応していませんし、判断は民間の自主的な運用に任されています。しかし結局、規制するべき表現の判断を下すときの基準が、人々が精神的苦痛を受けるかもしれないようなもの、では難しいと思います。

 

 そこで個人的には、表現の対象が客観的に見て判別できるかどうか、というのを判断基準に持ってくるのが比較的良いのではないかと思います。そもそも人々に精神的苦痛を与えない表現というものは存在しないと考え、ただし、その表現が客観的に見て判別可能な特定の属性や特徴を持つ人々を対象としており、さらに対象者たちが精神的苦痛を訴えていれば問題になり、規制対象になりうるということです。

 ここでは表現内容によって特定の人々がどれだけ精神的苦痛を強いられたかというのは大きな論点ではなく、ただ、その表現に描かれている人、あるいは何かが、客観的に見て特定の人々を対象として表現しているかどうか、というのが大きな論点です。

 もちろん、最終的に表現の対象の判断は主観的ではないのかという点においてはその通りですが、すくなくとも被害者の精神的苦痛の大きさなんかよりはまだ客観的な判断が下せるのではないかと思います。

 一例をあげれば、ヘイトスピーチ的な言動の「○○民族を日本から追い出せ!」とか「○○特権を許すな!」なども「エルフの村を焼き討ちにしろ!」とか「ゴブリンが毒を井戸に入れたぞ!」なら問題ないという形です。何を当たり前なことを、と思うかもしれませんが、フィクション作品に対する表現規制の声というのは、だいたいフィクションに出てくるモデルとどこかの人々が自分を重ね合わせてしまって精神的苦痛を感じるというところから来るはずなので、フィクションのモデルが現実の特定の人々を対象にしているかどうか、という点がまずは重要だと思います。

 なのでこの視点で行くと個人的にはテコンダー朴は中傷する人々がすこし偏っている上に客観的に見てもはっきりとしているので表現規制派に負けてもまあ仕方ないような気がします。ここでは内容はあまり重要ではなく(受け取る人々の主観によるため)内容が対象としている人々が判別可能かどうかが大事、という形です。でも二次元、3Dキャラなどの大部分はどっからどうみても現実の人々が対象ではないのでセーフという感じの判断です。

 

5 まとめ、そのほか

 以上、現代のおいて表現規制が正当化される理由と、個人的なまだ客観的であろうと考える表現規制の基準についての私の考えでした。とはいってもそもそも私はヘイトスピーチだろうが実害を出さなければ別にいいと思っているアメリカ式の自由主義者なので、できるかぎり規制がなされない方向で進んでほしいと願っています。そもそも表現の自由が保障されているならば反撃も自由なので糞みたいな表現にはこちらも糞を浴びせればいいのです。政府が表現の自由によってそれを保証しています。

 

 最近では新潮45の論争も話題で、LGBTに不快感を覚える人々の訴えが聞き入れられないのに、痴漢やセクハラに不快感を覚える人々の訴えはなぜ受け入れられるのか、とかそういう主張に対して、痴漢やセクハラは実害が出るのでだめです、というごくごく正当な反論がなされていますが、少し違和感がある反論もあったので補足しておきます。

 それは痴漢などを意識的ではなくて無意識あるいはどうしてもやめられない、というような特殊性癖の人々はLGBTと同じか否かという議論で、LGBTは元来先天的なものであるので後天的に獲得する特殊性癖などとは違うので、LGBTの権利は守られるが特殊性癖者の権利は守られない、という意見です。たしかに後天的に獲得する性癖と先天的なものであるLGBTは違うもので、そうした科学的事実の間違いを指摘することも大事ですが、それは権利を保障する基準にはなりません。後天的な性癖であっても権利は保証されます。あくまでLGBTの権利が守られるのは他人に不快感を与えるだけならば問題ないというだけで、実害をもたらすようであればそれは規制対象になります。同じように、特殊性癖も他人に不快感を与えるだけならば問題なく、実害をだすならば問題になるということです。

 こうした点は多くの人はきちんと理解していると思いますが、往々にして相手の主張のレベルがあまりにも低すぎておかしな点が多すぎると、反論するほうも一番重要な点を忘れて枝葉末節の間違いにこだわってしまい、結果として重要な点がぼやけてしまったり、おかしな反論になってしまったりするので、議論は難しいんだなあということを思っていました。

 

 

後記

本当はエメリッヒ版ゴジラの感想が書きたかったのに何でこんなことになった・・・

 

 

原題「Jurassic world Fallen Kingdom」

 

見たのは公開の次の日で、少し遅れたけれど、この映画は考察に感想に、いろいろ書きたかった。

 

見終わった直後の感想は、「これは困難なことをやってのけた映画だ」というものだった。

実のところ、この映画の面白さを私の基準で点数であらわすと、そこまで高いわけではない。私は本来、シンプルでテンポよく楽しめる作品のほうが好みであり、その点ではこの映画は悪くはないものの、ジュラシックパークやジュラシックワールドには及ばないからだ。

しかし、世界観に奥深さのある作品(原作のある作品、シリーズ物、複雑な作品など)には、単なる面白さとは別に、「考察の楽しさ」というものが存在する。ジュラシックワールド:炎の王国は、この考察の楽しさという点では、最高に素晴らしい作品だった。

 

ちなみにジュラシックパークシリーズの面白さ(おすすめ度)を個人的に点数であらわすとこんな感じになる

100点満点 ジュラシックパーク

60点     ロストワールド:ジュラシックパーク

75点     ジュラシックパーク3

90点     ジュラシックワールド

80点     ジュラシックワールド:炎の王国

 

そして考察の楽しさを個人的に点数であらわすとこんな感じになる

100点 ジュラシックパーク

90点  ジュラシックワールド:炎の王国

60点  ジュラシックワールド

10点  ロストワールド:ジュラシックパーク

0点   ジュラシックパーク3

 

 何が言いたいかというと、ジュラシックワールド:炎の王国は、ジュラシックワールドの続編として人々が期待するであろう、恐竜が暴れるシンプルなエンタメ映画作品としてみるなら、その評価は、「うん、まあ続編にしてはいい出来だったんじゃない」くらいで終わる作品だ。しかし、これがジュラシックパークという作品群の中の一つの作品として、考察を加えると、とても楽しくなるし、本作において個人的に注目すべきだと思うのはそこである。

 よってこのレビューにおいては、巷の「炎の王国」のレビューにあるような、前半の火山噴火シーンが派手でよかったとか、バヨナ監督による後半の恐怖描写と演出がよかったとか、恐竜かっこいいとか、そういった事については書かない。ネタばれ全開、オタク感全開のめんどくさい考察でジュラシックパークという世界の中の「炎の王国」の魅力について主張していきたい。

 

そんなわけで、この先はジュラシックパークシリーズを映画、小説ともに全部見ている事が前提で話を進める。

 

ところで、一つおすすめのレビューがあるので紹介したい。

こちらのWIREDによるレビューでは、炎の王国が映画としては何とも言えない煮え切れなさを持ちながら、原作小説のメッセージ性を打ち出してきていることを評価しており、個人的にも共感するところとしないところの混じった良いレビューだった。

https://wired.jp/2018/07/13/jurassic-world-fallen-kingdom-review/

 

 

マイケル・クライトンが小説に込めたメッセージ

 

 さて、ジュラシックワールド:炎の王国だが、上にあげたWIREDのレビューにも述べられているように、これはまさしくマイケル・クライトンの書いた近未来SF小説である、「ジュラシック・パーク」のメッセージを盛り込んだ、映画ジュラシックパークシリーズで初めての作品だとさえ言えるかもしれない。

 

 クライトンがマルコム博士の口を借りて小説に盛り込んだメッセージを極論すれば、「人間がどれだけ発達した科学を用いたとしても、自然、生命をコントロールすることは決してできやしない」というものだ。だが、そのメッセージ性は映画「ジュラシックパーク」ではやや薄れている。映画「ジュラシックパーク」を見て観客が感じるのは、「生命のコントロール不可能性」というよりもむしろ、「自然の恐ろしさ」や「人間の見通しの甘さ」ではないだろうか。これは似ているようではあるが、大きく違うものである。

 

 小説でも映画でも、ジュラシックパークを破滅に導いた直接の原因は、予算と人員をケチったためできた外面だけは立派な張りぼての管理体制と、恐竜の胚を奪うためパークの電源を落としたネドリーである。だから、映画版を見た人の多くは「このパークの管理態勢杜撰すぎじゃね?」と思っただろう。そして続編の映画を見るたびに「こいつら前の失敗から何も学んでないだろ。登場人物たちがしかるべき対策をとっていればこんな問題起こらないだろ」と思っただろう。

 

 だが、それこそが人間の思い上がりであるということが、マイケル・クライトンが小説に込めたメッセージなのである。もちろん、人間が愚かで、見通しが甘く、失敗に学ばないことなども指摘されてはいるが、たとえどれほど賢明な人間が細心の注意を払ったとしても、生命のような複雑なシステムを科学でもてあそべば必ず痛い目を見るぞ、というのが原作のメッセージである。

(なお、原作小説においてはネドリーによる電源遮断はパーク崩壊の原因ではなく、最終的な崩壊に至る電源喪失まで、幾度とない想定外が繰り返されている)

 

 これは主にマルコム博士の口からカオス理論を用いて説明されるが、小説ではマルコム博士のパーク崩壊論に否定的な登場人物の考えにもかなりのページが割かれている。パークのボスのハモンド、パーク管理者のアーノルド、遺伝子研究者のヘンリー・ウー博士。それぞれが述べるパークについての考えはそれなりの説得力を持っており、だれの考えが最終的に正しかったのか、論理的な決着は小説の中でははっきりとはついておらず、結果としてマルコム博士の意見が正しかったのが示されているのみである。しかし、小説だからこそできるこうした登場人物の細かな考えの説明を通して、「生命のコントロールは不可能だ」というメッセージは確かに読者に伝わる。そして、命である恐竜を閉じ込めて人間の都合の良いように管理しようというパークもまた、コントロール不可能なのだということがわかる。

 

 一方、映画ではマルコム博士こそ出てくるものの、パーク崩壊の直接の原因が結局人間であるために、パークの管理不能性が本質的であり解決できないものである、という印象はどうしても薄れてしまう。まあ、映画ジュラシックパークが名作になったのは、そのあたりの原作小説のメッセージ性を削ってシンプルなものにしたからでもあり、それはそれで良いことである。

 

 そんなわけで、映画のジュラシックパークから観客が受け取るメッセージは「自然と生命の恐ろしさと人間の見通しの甘さ」であり、マイケル・クライトンの「生命をコントロールしようなんて試みはすべて崩壊する」というメッセージは弱められてしまっていた。これが毎度の続編映画で繰り返されれば、観客も恐竜の暴れる姿にしか期待しなくなるというものである。

 

 

生命をもてあそぶ人間達

 

 ここまで、ジュラシックパークの小説と映画のメッセージの違いを述べてきたが、炎の王国のメッセージはかなり小説版に寄せてきているものになっている。

 

 最初、恐竜の救助作戦を行うとして始まった映画は、そのまま島から救助してきた恐竜を競売にかけるところにまで至るが、これだけ見れば、今までの映画、とくに映画ロストワールドの恐竜捕獲作戦の焼き直しにしか見えない。そうして恐竜たちを甘く見て人間が痛い目を見るだけならば、「人間の見通しが甘いだけ」である。この見通しの甘さは、「がんばれば生命はコントロールできる」という人の驕りの現れでもあり、「生命のコントロールは不可能」というメッセージ性にも密接に関連してはいるのだが、登場人物たちが観客が納得するほどにあらゆる努力を投じて恐竜を管理しようとしてなければ、危機が起こったとしてもそれは「生命のコントロールは不可能」だからというより、「人間が愚かで見通しが甘かった」とようにしか伝わらない。

 

 結局、炎の王国でそのメッセージ性が正体を現すのはラストなのだが、ここはいったん、炎の王国にはクライトンのメッセージが込められているという前提で最初から考えてみよう。そうすると、炎の王国の登場人物たちの恐竜たちへの視線は、歴代の映画の中でもひどく、ことごとく生命のコントロール不可能性を無視するような驕りたがぶったものだ(ロストワールド最序盤のINGEN社はこれに匹敵)ということがわかる。

 

 まず、ミルズなどの恐竜を競売にかけようとする人々だが、これは問題外である。パークをつくったハモンドでさえ、できるかぎり自然に近い生命(人間本位ではあるが)としての恐竜の姿を人々や子供たちに見せようとしていたのに、彼らに至っては人間に便利に消費されるモノとしてしかみていない。これはカオスな生命を甘く見る、愚かの極みといっていいだろう。

 

 次にクレアやロックウッド達の恐竜保護論者だが、これも駄目である。恐竜は人間の作ったものだから、勝手に作って絶滅しそうになったら見捨てるのは恐竜がかわいそうだ。恐竜たちには生命として尊厳があり、生き残る権利があるんだ、というのは一見普通そうだが、クライトンの代弁者であるマルコム博士なら、それは単なる自己満足だと言って一番嫌いそうな主張である。

 

”生命の生き死には、どれだけその間に人間の手が入り込んでいようとも本質的に自然のカオスの中で決まるものだ。たとえ人間が恐竜を作り、育てたとしても、恐竜の生命は本質的にカオスであって、人間の管理の範囲外にある。恐竜を人の手で生かすことができるなんて考えは、生命がカオスであることを全く無視し、生命が人間によって保障されているものなのだと考えることであり、自ら生命の自然性を冒とくしているに等しい。本当に恐竜を生命として尊敬するなら自然に任せろ。もっとも、生命の尊厳を守るとかではなく、自分が単に生きてる恐竜が好きだから生き残らせたいと考えているのであれば、矛盾しないが”

 

なんて言いそうである。

 

 ともかく、炎の王国の序盤では、恐竜を売りたい人も、恐竜を守りたい人も、恐竜を生かすも殺すも人間の力によってなされるのだという風に考えているのである。これは生命のコントロール不可能性と真っ向から反するものであり、原作のメッセージ性をできる限り映画のストーリーラインに取り込もうと考えていた現れのようにも見える。

 

 登場人物の中でほぼ唯一、恐竜の生き死にを自然に任せよと言っていたマルコム博士は、恐竜が自然の生命で人間の手に余る存在であるあることを理解していたのであるが、ほかの登場人物たちは恐竜の生き死には人の手で管理できると考えてしまっているのである。

 

 ところで、オーウェンの恐竜に対する視線は、比較的素直なものかもしれない。オーウェンはブルーを自分の相棒であり、また子供のようにも思っており、その生存を願ってはいる。しかしその一方、人とラプトルは共存しがたい存在であり、距離を置かなければならないとも考えている節がある。このあたりは映画の最初にオーウェンが恐竜救出作戦に行くのを渋っていた事からも読み取れる。オーウェンにとってブルーが死ぬのが嫌なのは確かなのだが、一方でブルー救出にすぐに乗り気にならなかったあたり、火山噴火に任せて見殺しにすることを考えていただろうと考えられ、ブルーを助けるということはあくまで自己満足であることを自覚していたようにも思える。とはいえ、この映画でのオーウェンのブルーに対する態度は煮え切らないものがあり、批判される点であるが、考察しがいがある点でもある。

 

 

イアン・マルコム vs ヘンリー・ウー

 

 今作では、前作の元凶であるインドミナス・レックスを作ったウー博士が再登場する。最後までまた死ななかったので次回作でも出るのは確実だろう。彼は前作、今作ともに、どっからどうみても危険そうな特性をふんだんにもりこんだ恐竜をためらいなく作っちゃうお茶目な科学者である。

 

 炎の王国において、前作以上に小物で悪役臭くなったウー博士だが、小説ジュラシックパークにおいては、ウー博士は物分かりがよく、探求心にあふれた研究者として登場する。マルコムには散々に批判されているが、原作小説において彼は実に真っ当な人であり、私は原作の中ではむしろ好きなキャラである。かれは恐竜の制作者であるため、恐竜がもはや遺伝子操作されて自然ではないこと、また恐竜の危険性や特性もある程度理解しており、危険そうな遺伝子を取り除く事をハモンドに提案したりしているし、多くの有用な情報を登場人物たちに提供している。グラントによる恐竜の繁殖の可能性などについても、当初は否定的なものの最終的には認めたり、かなり柔軟な考えを持つ人間である。

 

 一方で、原作小説のウー博士には、マルコム博士のカオス理論に対抗する科学万能主義者としての役目がある。次々に起こる非常事態に対して、マルコム博士がそれをパークと恐竜の本質的な管理不可能性だと考えるのに対して、ウー博士(とアーノルド)はそれをむしろパークがきちんと機能しているからこそ起きる問題であり、きちんと管理を徹底すれば解決可能な問題だと考えていた。あまりにも立て続けに起こる想定外のため、ウー博士はパークについては半ばマルコムの崩壊論に傾いてはいたが、最終的にはすべての事象は科学によって解明可能なのだという信念は最後まで揺らいでいない。

 

 原作ではラプトルに食われて死ぬが、生き残ったジュラシックワールドの世界においては、まさに生命をコントロールしようという試みの先頭に立つものとしてウー博士は登場する。彼はジュラシックワールド1においてインドミナスレックスを、2ではインドラプターをつくっている。ウー博士は恐竜を作っているだけで、別に危機の直接の原因には何も関与していないのだが、彼こそは自然のカオス性を真っ向から否定しようという存在であり、生命のコントロールは不可能だというクライトン、そしてマルコム博士にとっては完全な悪役なのである。

 

 ここまで述べれば、映画のウー博士が単なる悪役ではなく、原作小説におけるウー博士の役目を完璧に引き継いだ、映画にとってはなくてはならない存在であるということがわかるだろう。かれは、生命をコントロールしようという人々の傲慢な欲望を実現する存在として、その役割を果たしている。原作小説では、ウー博士はハモンドの無茶な要求によくこたえて、多様な特性を持つ恐竜を生み出している。ワールド1においては、観客を驚かせるような恐竜という要求通り最強の恐竜であるインドミナスを作り、炎の王国では軍事用に最適な恐竜をといってインドラプターを作っている。加えて、彼は要求に可能な限り完璧にこたえられるような恐竜を作ろうとする完璧主義者であり、しかもかなりの部分成功している。インドミナスにはありとあらゆる能力をつぎ込んだし、インドラプターでは兵器として人間が従えるための習性をくみこみ、さらにブルーの遺伝子まで用いて人に従順にさせようと試みている。こうした点からは、ウー博士があくまで人々の要求をかなえるために恐竜を作っていることがわかる。

 

 彼の生命をコントロールしようという試みは、おそらく最終作で彼が食われるまで続くだろう。しかし、もしも世界の人々が、もはや恐竜に対して興味を失い、放置するようなことになれば、人々の欲望の体現者であるウー博士もその試みを続けることはないかもしれない。

 

 

Life finds a way

 

 ここまで、炎の王国がいかに原作小説のメッセージ性を打ち出そうとしてきているか、登場人物による恐竜の扱いとウー博士とマルコム博士の登場から読み解いてきたが、正直なことを言うと私が炎の王国のメッセージが「人の見通しの甘さ」ではなく、原作小説の「生命はコントロールできない」であることだと気づいたのは、ラストの炎の王国で最も議論になりそうなシーンを見てからである。

 

 それは逃げ惑うただの子供枠だと思われていたメイジーが唐突にクローン少女だと明かされ、そして彼女が恐竜たちをアメリカ本土に解き放ってしまったラストシーンである。

 

 ラストシーンのポイントはいくつかある。メイジーはなぜクローン少女という設定でなければならなかったのか、彼女がクレアが解放しなかった恐竜たちを解放したのはなぜか、そしてオーウェンとクレアがそれを止められず、その決断に対して何も言わなかったのはなぜか、である。

 

 まず、メイジーがクローンである理由だが、ストーリー上においてはその必要性は全くない。唐突で蛇足な設定と言われても仕方がない。メイジーがただの子供だったとしてもストーリー展開上は全く問題ない。メイジーの存在経緯はロックウッドのおじいちゃんが娘の死を悲しんだだけと説明されるだけであり、何かストーリー上にてメイジーがクローンであることが活用されるわけではない。

 

 だが、ラストシーンにおいて彼女が恐竜たちをアメリカに解き放つためには、彼女はクローンでなければならなかった。いや、もっと突っ込んで言うなら、彼女がクローンでなければ、この映画を見ている観客である”私たち人間”が、恐竜を開放するというメイジーの決断を受け入れることができないのだ。

 

 クレアが恐竜を解放しなかったのは、彼女が私たち観客と同じ社会生活を営む人間としてはごく当然の判断である。恐竜がどれほど貴重な生物であったとしても、解き放てば確実に人間に被害が出る。人間は、人間を害するような可能性を意図的に作ることは社会的に許されないからである。

 

 メイジーがクローンではなくて人間の子供で、善意から恐竜を開放してしまうのも、映画の展開としてはありかもしれないが、その行為に対する解釈はクレアが恐竜を開放するかどうかの問題と同じでそれ以上の深みはない。例え目の前で苦しむ恐竜を救いたいという完全な善意のみで恐竜を解放し、解放した場合の人間の被害まで想像がつかなかったとしても、ほかの人間を傷つける可能性を招く行為は人間社会では正当化されない。ただ、子供などの未熟な者が判断を誤った場合には、再起のチャンスが与えられるのが社会のルールになっているだけである。

 

 しかし、メイジーがクローンであるという設定は、彼女を通常私たちが通常使っているような「人間」という言葉に当てはめてしまっていいものなのか、一瞬でもためらいを生じさせてしまう。そして彼女は「彼らも私と同じだから」と言って、恐竜をアメリカ大陸に、人間の大地に解放してしまう。彼女は、ただ目の前の恐竜たちが苦しんでるのがかわいそうで、人間が受けるであろう被害まで考えが及ばなかったから恐竜を解放したのではない。もちろん、逆に自分がクローンだから、人間の命なんて気にしてないから、恐竜を解放したわけでもない。彼女は、解放された恐竜によって人間が傷つけられるかもしれないことを承知で、それでも、すべての生命が生きようとすることを無条件で肯定し、そこに手を差し伸べたのである。

 

 ここまでかっこつけておいて正確なセリフを覚えていないのだが、メイジーがクローンであるという設定と「彼らも私と同じ」といって恐竜を開放する一連の流れは、クライトンの「生命はコントロールできない」という原作のメッセージ性を浮かび上がらせるだけでなく、さらにその上を行くものでさえある。

 

 クライトンとマルコムの口を借りれば、これはまさに「Life finds a way, 生命は道を見つける」である。遺伝子工学によって作り出された生命である恐竜は、同じように作られた生命であるクローンの人間によって、その生きる道を見つけたのである。恐竜を生き残らせたメイジーは、本人が言ったように恐竜と同じであり、人間でありながら人間ではない生命をも体現する存在である。遺伝子工学によって生命をもてあそび、コントロールしようとした人間の試みは、マルコム博士の予言通り崩壊した。生命はもはや人の制御をはなれ、その力は解き放たれた。

 

 だが、炎の王国のメイジーは、単に原作のメッセージを呼び起こしたにとどまらない。メイジーの存在とその行動は、制御不可能なのは自然の生命だけなのではなく、人間も自然の生物の一つであり、制御不可能なカオスなのだということを、否応にも我々に突きつけてくるものなのだ。これは、マルコムのメッセージをさらなるインパクトを持って現代社会に投げかけるものだ。

 

 原作においては、マルコムは生命のコントロールなどできないとカオス理論で繰り返し訴えていたが、これはむしろ理性ある人間ならば話は聞いてくれるし、理想的に事が進めばカオスを避けることが可能だと信じていたからだといえる。つまり、人間とそのほかの生物について、完全にカオスか、理性があってカオスではないかという境界があり、区別されていた。そしてこのために、ジュラシックパークにおいて人間が遺伝子工学の対象になることもこれまでなかった。遺伝子操作の対象となるは、常に人間以外なのである。もちろん、人を対象にした遺伝子工学のSFなんてそれだけで一冊かけるし、恐竜の話に全くそぐわないのでジュラシックパークに人間の遺伝子操作の話が入る余地はない。だがそれはジュラシックパークにおいて、人間とそれ以外の生命が区別されている一つの表れであり、ほかにも、舞台を遠い孤島に押し込め、人間社会のある私たちの世界から隔離している事からも、人間の理性ある社会と、そうでないカオスな生命の世界を明確な分離していることが読み取れる。

 

 しかし、現実における遺伝子工学の発達は、そうした人間の世界とカオスな自然の境界を埋めつつある。近年発達の著しいゲノム編集の技術において期待されているのは、家畜や農作物の改良ではない。人間の遺伝子を編集し、病気を治療することである。人間はついに、自らの遺伝子さえ、自然の一部とみなしてコントロールしようと試み始めている。それがもたらすであろう結果は、マルコムに言わせれば明白だ。究極的にはカオス、制御不可能である。

 

 炎の王国は、もはや自然の生命だけではなく、このように我々人間自身の身に迫ってしまった制御不可能性を、メイジー自身がクローンであることに加えて、アメリカに恐竜を解き放つことによって象徴しているのではないかと私は思う。私たち人間が築き上げてきた理性に基づく世界は、今やもう、もしかすると最初から、ただの幻想でしかなく、本質的には我々の世界もまたカオスなのだと。

 

 だが、メイジーはカオスを人類にもたらしたのと同時に、カオスたる恐竜の生命を救っている。彼女は制御不能な世界において、生命が生きようとすることは肯定したのである。仮に牢に銃は持ってるが飢えた人間がおり、牢の外には肥えた牛がいたとしてもメイジーは牢を開けるだろう。牛を殺して食べる人間の生の営みは肯定される。だが同時に、牛が人間に突進して殺されるのに抵抗することも肯定される。生命が自らの生きる道を探すための行動は、その結果に対して人々がどう思うかはともかく、等しく価値あるものだ。例え人間の世界が制御不能になろうとしても、人もまた自らの生きる道を探すことができるのである。

 

 炎の王国は、マルコム博士がいまや人間は恐竜との共生を強いられていると話し、「Welcome to Jurassic World ようこそ、ジュラシックワールドへ」と告げておわる。このセリフを言うジェフ・ゴールドブラムを拝み、大塚芳忠の渋い声を聴くだけでもこの映画には見る価値がある。

 

炎の王国の英語の題名はFallen kingdom、王国の終わり、とでも訳せる。果たして終わった王国とは、恐竜の世界のことだったのか、それとも我々人間の世界のことだったのであろうか。そんなめんどくさい考察がはかどる映画だった。

 

ちょっと考察の内容がWIREDのものに似ているかもしれないが、実際WIREDのレビューは後半部分は個人的にも共感できるところが多く、大いに参考にしてもらっている。もしも私の面倒な考察が気に入る人がいれば、光栄の限りである。

 

 

 

 

 

気づいたら最後の投稿から一年以上経過していた。

もとより、このブログは自分の趣味で思ったことなどを個人的な記録としてまとめようと思っていたものなのだが、一度作り始めたら一記事に思ったよりも時間がかかってしまい、その結果継続的に書く気力がなくなるという非常によろしくない結果に陥っていた。

 

自分としては今後も継続的に書きたいが、同様の事態になって全く更新する気力がなくなることは避けたい。よって、ネタが思いついたとしても投稿は月一くらいを目標にのろのろと書きだめして制作途上の記事をある程度用意しておき、やる気が出た時のみ、その中のどれかを選んできちんと書き上げて投稿するという形にしていこう。

三ヶ月以上ぶりの更新ですが、短めです。
しばらくstellarisをやっていました。

ですが、一度目のゲームはあまりスクショをとっていなかったためにAAR形式での紹介はできないのでどこかで簡単にまとめようと思ってます。

宇宙ストラテジーとして無類の完成度を誇り最高のゲームですが、日本語での情報源が日本語Modを使い、チュートリアルをこなすか、2chの海か、未完成かつアップデートがすこしおそい2種類のwikiしかないため、下調べする人にとってはすこしつらい状況です。
英語版のwikiはとても充実してるので、そのうちその内容をどちらかの日本語wikiに入れていこうかと思ってます。