近頃の興味:表現規制はいかに正当化される? | 爆発が足りない

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 なんとなくTwitterなどで見かける話などで興味のある出来事についての個人的な考えを述べるだけの文章です。

 

 日ごろからTwitterいいなあと思いつつ、あんな短文ではまともな話もできんとも思っていたので、個人的名興味を必要なだけ備忘録的に書き記します。今回のテーマは表現規制です。まあ、ポルノとか、ヘイトスピーチとか、そういうところです。

 

 最近だと例の「これ、気持ち悪い~~~」のtweetに始まる一連の流れについて、表現の自由と規制についての個人的な考えをまとめたいと思います。

 

 

1 自身の基本的な表現規制についての立場

 

 まず私の考えですが、原則的にはある表現について、実害(極端に言えば金に換算できる被害)が出ないならば基本的には表現の自由は保証すべきだと思っています。ヘイトスピーチもポルノも、どこかの誰かに対して実害が出なければ問題ないと思っています。つまりは、何かの表現によって誰かが精神的に苦痛や不快感を感じるだけなら、その表現を規制することを正当化することは本来できないと思っています。ただし、もしも精神的苦痛などにより、当人の制御範囲外で実際に健康や身体に害を及ぼすのであれば、それは表現によって発生した実害であり、その表現への規制を正当化する理由にはなり得るでしょう。ただし、単にヘイトスピーチやポルノがなどの表現が人々に精神的苦痛を与えるだけというのであれば、規制されるべきものではないと思います。

 

 

2 実害のない表現への規制の正当化:実害予防

 

 しかし、現在の日本や世界において、実害はなくて精神的苦痛を与えるだけの表現についても、規制は行われています。日本において確固として法制化されているのは公然わいせつなどでしょう。公然わいせつは周囲に対して実害を出さなくても禁止です。これはいかなる論理に基づいているのでしょうか?

 実害の出ない表現への規制の正当化理由は、主に二つあると思っています。まず一つは、たとえ実害がなかろうとも、公共の福祉を阻害する可能性のある表現は規制可能だというものです。これは犯罪予告とかで逮捕されるのと同じ理由で、やばい表現は実害を起こす可能性もあるかもしれないので規制するというものです。戦争ゲームしすぎ、アクション映画の見過ぎで殺人者が増えるみたいな考え方です。

 これについては様々な意見があると思いますが、特定の表現が社会に害をもたらす可能性については、その表現の内容のわずかな違いや社会状況によって変化するものなので、ある属性を持つ表現を一括で規制することの正当化理由としては弱いと思っています。実際には個々の表現を見て、これはOK,これはNGみたいな判断を個別でする形になっていると思われます。それこそネットの危ない書き込みの中から本当のテロ予告を見つけ出すみたいなものです。

 なので、実害予防のために表現規制を行うことは、現在の法制化されている表現規制の正当化理由だとは少し考えにくいと思っています。

 

 

3 実害のない表現への規制の正当化:精神的苦痛

 

 もう一つの実害のない表現規制の正当化理由は、表現によってひきおこされる人々の精神的苦痛を理由とするものです。公然わいせつが違法なのは実害の予防というよりも、こっちが主な理由でしょう。

 さて、私やその他の表現の自由擁護派が単に精神的苦痛のみを理由とした規制を好ましく思わないのは、そもそも精神的苦痛がどうのこうのというのは人々の主観的な判断によってしまうためです。不快感や精神的苦痛というのは一部の人々の主観的判断によらざるを得ないので、精神的苦痛を理由とする表現規制を正当化すれば、究極的にはあらゆる表現が規制されてしまうというものです。

 とはいえ、特定の表現が人々を多いに傷つけてしまう場合があることは確かです。それが当人の健康や資金面に影響を及ぼすことがなかったとしても、耐え難い精神的苦痛を与える表現があれば、それを規制しようと思うのは当然のことです。

 現実には、精神的苦痛による表現規制はあることはありますが、包括的なものではなく、やはり個別の状況に応じてこれは許せる、あれはダメ、、というように判断を下す形になっています。ただし判断基準である法にかなりあいまいな部分があり、ここをめぐって規制賛成派と反対派が争う形になっています。

 先ほども書いたポルノなどについては、公共の場で禁止されている表現は判例からは以下のようになっています。

  1. 徒に性欲を刺激・興奮させること
  2. 普通人の正常な性的羞恥心を害すること
  3. 善良な性的道義観念に反すること

 うーん。あいまいですね。道義的観念とか羞恥心を害するとかありますが、「精神的苦痛を強いるもの」をわいせつ物の文脈に応じて言い換えているだけのようなものです。

 実のところ、定義さえはっきりとしていれば規制反対派はそこまで強く反対しません。児童ポルノ禁止はどうなっているかといえば、

  • 児童の性交やそれに似た行為
  • 児童の性器を触る姿
  • 児童が他者の性器を触る姿
  • 児童の裸または半裸
  • 児童とは18歳未満の者

です。ここまで限定され、定義がはっきりとしていれば、客観的に規制対象を判断できますし、規制反対派としても最大の懸念である主観的、恣意的な判断による規制乱用は抑制できるわけです。まあ、架空の未成年キャラとかはどうなるんだというグレーゾーンはありますが、仮に架空キャラに適用されるならば、児童の判別ができないので個別対応という形になるでしょう。それだと恣意的な運用になるので今のところは架空キャラについては現実に実在する児童をあからさまにモデルにしてたりしない限り原則フリーという感じだと理解しています。

 

 上記の二例は、実害を与えない表現規制を正当化する難しいところがよく表れているものだと思っています。児童ポルノなどは規制内容が表現の中の特徴に対して行われているので客観性も担保されているのですが、通常のポルノは単に表現がエロいだけでは規制対象にはなり得ず、それを見た人々がどう感じるかというのが基準になっており、主観的であいまいです。ヘイトスピーチや種々のハラスメントも同様で、表現内容そのものというより表現に対して人々がどう感じるかが問題になっている以上、どうしても規制基準が主観的で恣意的なものになってしまうのではないかと思います。

 表現規制派、反対派の極端な方は、人々の感じ方という主観的な問題に共通の客観性を見出そうとした結果、あらゆる規制を正当化、あるいは不当化しようという結論になったりしますが、多くの人はもっと良い妥協点を探ろうとしているはずです。

 では如何にして正当化される、あるいは不当化される表現規制を判別するのか、個人的に考えられるいくつかの基準を最後にまとめようと思います。

 

 

4 精神的苦痛のみをもたらす表現の規制基準

 

 まず出発点として、その表現に対して人々がどのように感じるか、という基準は客観性がないため、あまり頼りたくはありません。とはいえ、被害者が被害意識をもっているという事そのものには客観性があるので、表現によって傷ついたと感じる人々がいることは、まず表現規制をするのための出発点になります。だれも傷つかない表現は規制する必要はないという当たり前の話ですね。今回の場合前提としてそもそも精神的苦痛のみ与える場合を想定しているので、本人が精神的苦痛を認識してないが実は精神的苦痛を感じているという状況はとりあえず除外します。(何言ってんだ)

 その後の方向性としては、あくまで主観的な精神的苦痛を基準とするか、あくまで客観的に評価可能な基準を探すかという形になりますが、私としては客観的に評価可能な基準を探す方向性が望ましいと思いますし、今のところはそのような形になっています。つまり、ある表現によってある人が精神的に傷ついたのであれば、その人の状況や境遇を調べ上げ、表現をみたらどのくらい苦しむかというのを第三者視点で推測し、それによって賠償などを決めるということです。

 ただしこの方法では極度に個別事情に特化する形になるため、賠償には役に立ちますが、表現を行う人がどのような表現が規制にあたるかどうか判断するのには役に立ちません。ある表現を見た人々が、彼らのおかれている個別の状況によってどのように感じるだろうかというのをすべて考慮することは不可能です。表現の自由の問題において加害者側に加害意識がない場合は、そういうことです。

 ただし、現在一般的に行われている未成年と成年向けなどのゾーニング規制は一応はこれを考慮した結果になります。ここから先は人によっては不快に感じるものがあるかもしれないので来ないでね、というやつです。ただこれはヘイトスピーチなどには対応していませんし、判断は民間の自主的な運用に任されています。しかし結局、規制するべき表現の判断を下すときの基準が、人々が精神的苦痛を受けるかもしれないようなもの、では難しいと思います。

 

 そこで個人的には、表現の対象が客観的に見て判別できるかどうか、というのを判断基準に持ってくるのが比較的良いのではないかと思います。そもそも人々に精神的苦痛を与えない表現というものは存在しないと考え、ただし、その表現が客観的に見て判別可能な特定の属性や特徴を持つ人々を対象としており、さらに対象者たちが精神的苦痛を訴えていれば問題になり、規制対象になりうるということです。

 ここでは表現内容によって特定の人々がどれだけ精神的苦痛を強いられたかというのは大きな論点ではなく、ただ、その表現に描かれている人、あるいは何かが、客観的に見て特定の人々を対象として表現しているかどうか、というのが大きな論点です。

 もちろん、最終的に表現の対象の判断は主観的ではないのかという点においてはその通りですが、すくなくとも被害者の精神的苦痛の大きさなんかよりはまだ客観的な判断が下せるのではないかと思います。

 一例をあげれば、ヘイトスピーチ的な言動の「○○民族を日本から追い出せ!」とか「○○特権を許すな!」なども「エルフの村を焼き討ちにしろ!」とか「ゴブリンが毒を井戸に入れたぞ!」なら問題ないという形です。何を当たり前なことを、と思うかもしれませんが、フィクション作品に対する表現規制の声というのは、だいたいフィクションに出てくるモデルとどこかの人々が自分を重ね合わせてしまって精神的苦痛を感じるというところから来るはずなので、フィクションのモデルが現実の特定の人々を対象にしているかどうか、という点がまずは重要だと思います。

 なのでこの視点で行くと個人的にはテコンダー朴は中傷する人々がすこし偏っている上に客観的に見てもはっきりとしているので表現規制派に負けてもまあ仕方ないような気がします。ここでは内容はあまり重要ではなく(受け取る人々の主観によるため)内容が対象としている人々が判別可能かどうかが大事、という形です。でも二次元、3Dキャラなどの大部分はどっからどうみても現実の人々が対象ではないのでセーフという感じの判断です。

 

5 まとめ、そのほか

 以上、現代のおいて表現規制が正当化される理由と、個人的なまだ客観的であろうと考える表現規制の基準についての私の考えでした。とはいってもそもそも私はヘイトスピーチだろうが実害を出さなければ別にいいと思っているアメリカ式の自由主義者なので、できるかぎり規制がなされない方向で進んでほしいと願っています。そもそも表現の自由が保障されているならば反撃も自由なので糞みたいな表現にはこちらも糞を浴びせればいいのです。政府が表現の自由によってそれを保証しています。

 

 最近では新潮45の論争も話題で、LGBTに不快感を覚える人々の訴えが聞き入れられないのに、痴漢やセクハラに不快感を覚える人々の訴えはなぜ受け入れられるのか、とかそういう主張に対して、痴漢やセクハラは実害が出るのでだめです、というごくごく正当な反論がなされていますが、少し違和感がある反論もあったので補足しておきます。

 それは痴漢などを意識的ではなくて無意識あるいはどうしてもやめられない、というような特殊性癖の人々はLGBTと同じか否かという議論で、LGBTは元来先天的なものであるので後天的に獲得する特殊性癖などとは違うので、LGBTの権利は守られるが特殊性癖者の権利は守られない、という意見です。たしかに後天的に獲得する性癖と先天的なものであるLGBTは違うもので、そうした科学的事実の間違いを指摘することも大事ですが、それは権利を保障する基準にはなりません。後天的な性癖であっても権利は保証されます。あくまでLGBTの権利が守られるのは他人に不快感を与えるだけならば問題ないというだけで、実害をもたらすようであればそれは規制対象になります。同じように、特殊性癖も他人に不快感を与えるだけならば問題なく、実害をだすならば問題になるということです。

 こうした点は多くの人はきちんと理解していると思いますが、往々にして相手の主張のレベルがあまりにも低すぎておかしな点が多すぎると、反論するほうも一番重要な点を忘れて枝葉末節の間違いにこだわってしまい、結果として重要な点がぼやけてしまったり、おかしな反論になってしまったりするので、議論は難しいんだなあということを思っていました。

 

 

後記

本当はエメリッヒ版ゴジラの感想が書きたかったのに何でこんなことになった・・・