社会や文化によって求められる知の形 | まきしま日記~イルカは空想家~

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ちゃんと自分にお疲れさま。

ネットで「IQテスト」と検索すれば、本格的なものから眉唾なものまで、ピンキリと様々な試験問題がヒットするだろう。以前に俺が受けたものは、世界百数十ヶ国を対象とし数百万人のサンプル数を誇る、かなり大々的なものであった。先に自慢をしておくと俺のスコアはIQ148、凄いだろ。

 

さて話を戻す。そのIQテストでは国別に平均スコアが集計されていた。トップは韓国で平均105、次いで中国と日本、それに欧米諸国、さらに東南アジア諸国と続き、最下位はアフリカ諸国で平均は90ほどであった。それを見て、俺は即座におかしいと思ったのだ。国や地域によって多少の差異はあれど、平均スコアが10以上も開くことなど果たしてあり得るのだろうか。そんな疑念とともに俺は各国の序列を再度見返し、そしてあることに気付いた。これはその国その国の学歴社会の熾烈さ、学生の受験勉強の苛烈さを表したランキングそのものではないか。

 

無論、試験勉強に要する能力もまた人間の知力であることに間違いはない。しかしそれが知の全てではあるまい。国や地域が変われば、社会や文化によって求められる知の形も当然に変わってくるだろう。ならば全人類の知力をIQという1つの尺度で測ること自体、ナンセンスなのかも知れない。