平成日本の芸能史を代表する2大スーパースターと言えば、木村拓哉、そして浜崎あゆみであろう。この俺に言わせるならば、目下アメブロで悪イメージ払拭中の自称・人間国宝さんよりも、彼らの方がよっぽどその称号と栄誉に値する。
例えば近年、福山雅治、宇多田ヒカルといった往年のスターの再評価の動きが見られるが、かつてその全盛期において福山は俳優部門の2番手、宇多田は女性歌手部門の2番手、トップを独走し続けていたのは言わずもがな、キムタク、そしてあゆである。
さてキムタク、あゆに深く共通する点がある。それは今や完全に過去の人であることだ。それも両者ともに自然に人気が風化したのではない、恣意的な悪意によって大バッシングとともに芸能界から抹消されたのだ。
その件につき、俺は過去何度かブログにキムタクやあゆを擁護する記事を書いている。俺はキムタクファンなのか、あるいはあゆファンなのか。答えは否だ、別にキムタクもあゆも好きでも嫌いでもない。ならば一体、俺の執筆動機はどこから来るのだおるか。
行き着いた結論、「キムタク、あゆは俺の青春時代そのものだからだ」。90年代後半、俺の中高青春時代。ファンだろうがなかろうが関係なし、目を開けばキムタクが、耳をすませばあゆが否応なく飛び込んで来る。それが空気のように当たり前、そんな時代であった。
俺はキムタク、あゆ自体に特別な思い入れはない。しかし彼らを否定すること、それは彼らとともに歩んだ俺の懐かしき時間を、懐かしき若さを、懐かしき場所を、懐かしき友を冒涜することに他ならない。それだけは断じて許さない。