いったい自分に何が出来るのか? 内なる声が問いかける。外(天)から私に尋ねてくる。
この戦場で戦っている人たち、職業者は自分の使命とプライドをかけて臨んでいる。
職業者ではない人々~ボランティア、いや、被災者も自らが働いている。
この人たちの動機は、モチベーションは、一体何なのだろうか。
多分理由など 無いのかもしれない。自分が仲間が生きるため、そして人間の内なるところに
ある何かが無意識のうちに 動かしている。
官やマスコミが アレコレ言う横から 「おれたちは立ち上がるぞ!理由理屈じゃない」と
決起する人々。自分の思いや考えを発しながら支援を募り、参加を誘ってくる。
よし!自分も!と馳せ参じようとしたが、何かがまた問いかける。出来るかい?と。
コメントする、長い経歴の支援ボランティア組織の責任者。
「今、現地で活躍してもらえるのは、自己完結が出来る能力が
あるチームだけ、つまり、警察、消防、自衛隊、各国のレスキュー
隊など。彼らは救助や支援をしながら、自分たちは自活(衣食住
と移動)して、他の手は煩わせない。素人が体一つで飛び込んで
きても、どこにいて何をするの?食べるものは?被災者にだって
行き渡らないのに、そこからもらうつもり?結局いっしょに被災難民になってしまうだけ。
今はプロだけが活躍できるとき。復旧復興は長期戦になる。
ボランティアの出番は必ず来るから。」と。
はっ、と思った。自分の気持ちが空回りしていただけなのか?冷静に考えれば
ごくリーゾナブルなこと。でも、この決起する人々と比べて、どうして自分は勇気が
ないのか、熱く立てないのか、おまえは弱虫の偽善者か と言われているような・・・・
気持ちが整理できない。
それじゃ、もう一度心の内に戻って自分に問うてみよう。どうしたいのか?
何故したいのか?どうするべきなのか?
決起する人たちの団体の代表のコメントが目にとまった。
「阪神大震災では、いち早く救済活動に入り・・・・・
自分たちの活動が役立ったことに、やりがいと満足感を感じた・・・」
苦しむ人々を救うために、自分のやりがいや満足感は必要だろうか?
それが動機やモチベーションだとすれば、出発点が少しおかしい?
何かが違うと思う。本来は助ける側には何も残らないし、得られない。
「無」であり 「空」なのではないか。仏の教えでは 喜捨だ。
(決して 結果としてやりがいや満足感を持った人を否定はしない。)
自分に「無」がなければ、周りの動きだけに誘われて「自分」を持てない
まま 動き始めることはどうか と思う。そんな動機なら決して役には
立てないだろう。ご迷惑になるだけ。
もう一度、内なる自分と対話する時間を持ちたいと思う。
「考えていないで動け」と叱咤されても・・・・。
このテーマは長期戦、今出来ることを続けながら
、きっと自分の役割を見つける。