東京出張の往復で一気読みした。
厚い本ではあるが、みるみるうちに残りページが少なくなる。
会話文が多いこともあるが、それにしても小気味よい読み口。
噺家が本を書くとこういうことになるのか。
- 赤めだか/立川 談春
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17歳で高校を中退、競艇選手の夢を諦めた後、立川流入門。
それから真打昇格までの半生を書いた本。
といってしまえば平凡な紹介になってしまう。
それにいくつかの要素がいろんな角度から練りこまれていて、非常におもしろい。
なにしろ立川談志という人については本当に興味深い。
近くにいた人じゃなければわかり得ないエピソードがふんだんに。
ネタとしては反則だが、そこは修行をやりきった談春だからこそ許されることなのだろう。
何が正しいのか。
どうするべきなのか。
局面や立場で、いろいろ考えさせられる。
理不尽。
ご法度。
師弟関係にはつきものだけど、そういうのも含めて読ませる。
大変面白く、笑い、感動した。
凄い世界なんだろうなと容易に想像できた。
ただ、悲しいかな・・
落語というものを聞いたことがない。
寄席はおろか、TVでも笑点くらいしか落語家の動いてる姿を見たことがない。
古典落語の演目がいくつか出てくるが、「芝浜」くらいしかタイトルを聞いたことがない。
談志は知っているが、その師匠や協会脱退などの関係性を知らない。
落語界の番付を知らない。(前座、二ツ目、真打など)
なにしろ、談春という人となりを知らない。
読む資格あるのかって話だなw
もうちょっと背景や関係性を知っていれば、なお面白く読めただろうに。
ただ、そんな人間が読んでも面白く、興味を抱かせる内容に仕上げているのはさすが。
この本を機に落語の世界に興味を持つ人、多いと思う。
この本の中で、一箇所だけアレ?という箇所があった。
この本での1人称は、あえてか談春に振り仮名をふるという形式をとっている。
第6話までがボク、第7話からはオレとふられている。
同じように談志にも振り仮名がふられているが、全編通してイエモトとふられている。
しかし(たぶん)一箇所だけ、シショウとふられている箇所がある。
それが51P最終行。
いつまでたっても育たない金魚を、赤めだかと呼ぶ場面。
大きくならないところも談志(シショウ)好みらしく可愛がっていた。
ここだけ。
改行もない、続く文章の中にはもうイエモトに戻ってる。
これはなんか意味があるに違いない。
なにしろタイトルになっている赤めだかは、ここにしか出てこない。
おそらくは談春は自分(たち)のことを赤めだかに例えており、
それを可愛がる談志はこの場面においてはイエモトじゃだめだったはずだ。
シショウでなければならなかった。
師弟関係を表現するためにつけたタイトル。
それが登場する唯一の場面での粋な呼称変更。
どうでしょう。
深読みしすぎでしょうか。