素襖の装束 | blog.正雅堂

素襖の装束




これは素襖(すおう)と呼ばれる装束。
所用があってこのたび遠方から取り寄せた。

 森家の定紋である鶴丸紋が描かれた装束であるが、本来は替紋の五三桐だったのではないかと思っている。
 遠祖である三日月藩主森長俊はその伝記に五三桐を衣服に用いたと記しており、久留里の森氏も五三桐(一部光琳桐)を用いているというのがその所以だ。しかし、今ではいずれの家も定紋を用いている事から、この装束となった。


一見、忠臣蔵で浅野内匠頭が着ている「大紋」に酷似しているが、紐綴じの形状や紋が染め抜かれる場所など、大紋とは若干異なる。

従五位に任ぜられた武家・・・その多くは藩主クラスの上級武士であるが、彼らが着用したのが「大紋」。そして素襖は大名の家臣が江戸城中における正装とされていた。久留里の森家では正装ということになる。


家臣といっても、もちろん全ての藩士がこのような装束を持っているわけではない。主君が江戸城で儀典を勤める折に、その介添えや供奉・陪席のときに着用したのが本来の用と思われる。そして、そうした役割ができるのは、家臣の中でも家老や用人クラスである。




 渡辺崋山の傑作に鷹見泉石の肖像(国宝)がある。泉石は田原藩の江戸家老を務めた人物で、素襖の姿で崋山に描かれている。これに見る限り、家老の正装といっても過言ではないだろう。


しかし、家老といえども江戸城中でこの装束を着る機会は極めて少ない。

江戸城中へ入れる者は大名やその継嗣といった極一部の人々。

最たる重臣であっても、初御目見や、藩主の名代で公儀に届出をするなどといった僅かな特例に限られ、それ以外の家臣もその階級によって大手門前や御殿の玄関先で主を待つのである。

 忠臣蔵で、浅野が吉良に刃傷に及んだとき、大手門前で諸藩の藩士にその仔細が発表されるシーンがあるが、まさにその図である。

だが、これらの装束は殿中に限った使い方ではなかったようだ。

たとえば、久留里藩制一班に久留里城普請の図が描かれている。
天守閣を造営する神事の図で、重臣が直垂か素襖のような装束で居並んでいる。細かい絵ではないので詳細はわからぬが、おそらくは素襖であろう。こうした藩中行事でも着用していたということがわかる。

 元々素襖は室町・戦国時代からあった武家の装束。

当時は武家に限らず様々な人が着る実用的なものであったが、江戸時代になって長袴などに変化し、形式的な装束になった。現在では能装束として生き残っている。