史上初・富士山頂の雲上茶会
雲上茶会 という言葉が生まれた。
実はこれ、マスコミの記者さんたちが、使うようになったのが由来だ。
今日現在、Yahooでこのワードを検索しても、我々の記事しか出てこない。
決して茶道史や茶道のお点前で命名されたものではないのだ。
最初、プレスリリースでは「頂上茶会」とか、「富士山頂で茶会」といった表記にしていた。しかし、あまりシックリこなかったのであろう、雲上茶会という風に新聞で大きく報じられると、各社ともに、雲上茶会で統一される用になり、我々もこれに従うようになってしまった。
その史上初の雲上茶会が本日、富士山頂上の浅間大社奥宮において、厳粛に執り行われた。
裏千家前家元・鵬雲斎大宗匠よりこの茶会のために拝領した、御色紙「慶雲生萬福」を神前に掲げ、師がその名代となって献茶をされる。
私はといえば、僭越ながらも社中肝煎として、先祖の装束に身を包み、師の後ろに控える。対面には神職、そして筆頭社中の先輩が神職介添えとなって横に控える。
その後ろには報道陣がカメラを一斉にこちらへ向けている。
浅間大社さまは、遠祖森長俊公にも所縁の深い神社。
信仰心が厚く、富士を愛した公は、恐らく山頂にあるこの神社に詣でることを望まれていたのではないだろうかと、思いを馳せる。
それは江戸時代、富士山頂に修験者ではない一般の人、ましてや家臣とその家族の生計を守る立場にある藩主が生命の危険を冒してまで登ることなど、到底許されなかったからだ。
その場所に私は居る。長俊公が召したであろう大紋の装束とは一級格が下の素襖、それでも久留里藩の家老を務めた森家では最高礼装なのだが、この装束に身を包んで、師の御点前を拝した。
富士山の山頂で、噴火口に向かって茶を点てる師の様子は、
秦の始皇帝や漢の武帝が泰山の山頂で行ったという封禅(ほうぜん)の儀式を連想させる。 泰山には噴火口はないし、封禅の儀式は秘伝のため、現代に伝えられていないが、恐らくは同じような厳粛な雰囲気だったのではないだろかと察する。
その後で、茶会となる。
役職と入門順に亭主の番が回ると、私は2番手。
装束を脱いで、熨斗目に黒袴の姿となって点前座に着く。
正客を然る大名家の御子息にお勤めいただいた。
森の本家とも縁のある織田家臣筋の御家で、これもまた歴史的なご縁となった。標高3700mの富士山頂に着物姿とスーツ姿という、あまりにも掛け離れた衣装に、この写真が山頂のものだとは、言われなければ気づかないだろう。


