1950年代の国連は、その後に国連に加盟する多くの国はまだ植民地として支配されていて、「アメリカの投票機械」と揶揄されるような状況が支配していた。ある国の軍事行動が侵略かどうかの議論もその現実を反映していた。
例えば、1956年のハンガリー事件に際し、国連総会は一連の決議を採択し、ソ連が国連憲章第2条4項の武力行使不行使原則に違反したと認定するとともに、ソ連軍の撤退を要求した。それ自体は当然のことだったが、一方でアメリカの違法な軍事介入には口をつむることになる。
その代表格が直前(1954年)のグアテマラへの介入である。アメリカは当時のグアテマラ政府を「共産主義政権」と決めつけ、亡命者の軍事訓練をニカラグア周辺諸国で行い、政府の転覆をめざしていた。これに対して、グアテマラ政府は国連安保理にこれらの活動の停止と監視団の派遣などを求めたが、アメリカは安保理でこれは米州機構の内部問題だと主張し、米州機構が調査を開始したことをもって安保理の議題にならないという態度をとり、グアテマラ政府の発言も許さなかった。そうこうするうちにグアテマラ政権は打倒され、親米政権が樹立されることになる。
こうして当時の国連は、ソ連の無法は糾弾するがアメリカの無法は黙認するという態度をとっていたわけだ。これでは国連憲章の法としての価値はないに等しくなる。
しかし、そういうなかでも当時、イスラエルの軍事行動だけは、それなりに国連憲章にそった議論になっていた。まず最初は1956年のスエズ戦争である。
この年の7月、エジプトがスエズ運河の国有化を宣言すると、イギリス、フランス、イスラエルが共同で参戦し、イスラエルはシナイ半島を、英仏は運河地帯を占領した。安保理での討議は英仏の拒否権にあい、議論は総会の場に移される。
イスラエルが自国の軍事行動の口実にしたのが、国連憲章第51条に規定された「自衛権」であった。エジプト内のアラブゲリラのたびたびの越境侵入が、自衛権が発動できる要件としての「武力攻撃」にあたるというのである。
じつは、51条にある「武力攻撃」とは何かについて、憲章では定義されていないし、国連での議論もあまりされていなかった。そのため、侵略する国の多くは、ゲリラの侵入など小規模の武力行使であっても、それは「武力攻撃」だとして自衛権発動を主張する傾向にあった。現在のイスラエルと同じだが、当時からそのような主張をしていたのだ。
けれども国連総会の議論では、多くの国がイスラエルの行動は51条では正当化できないし、2条4項の武力不行使原則に違反していると主張した。議論の末に圧倒的多数で採択された決議(賛成64、反対5、棄権6)は、イギリス、フランス、イスラエルの占領地帯からの撤退を求めた。イスラエルの自衛権主張は、英仏が軍事行動の根拠として主張した「運河通航の安全保護」の主張とともに、まったく支持されなかったのである。(続)