これまで述べてきたように、2015年に志位氏が提唱した野党連合政府は、綱領的には「さしあたって一致できる」程度の暫定政権であった。「一過性」のものだったはずなのである。

 

 ところが、これが政治の面白いところだが、実際に共産党がこれに挑んでいるうちに、めざすべき政権の性格が変わってくるのだ。志位氏の『新・綱領教室』でも、共産党にとっての現在の位置づけについて、過去の一連の提案を紹介しつつ、「一過性の提案ではありません」とまで述べている(118ページ)。

 

 この変化は、まず実際に政権問題に共産党が歴史上初めて取り組んだ結果が生みだしたものだと感じる。過去の「一過性」提案は、ただ提案しただけで、他党との協議ができたわけではない。だか今回、相手がどれだけ真剣かは別にして、共産党の票ほしさに他党は協議には応じたのである。

 

 そして、実際に協議をしてみると、共産党は政権の性格をどう位置づけるかを説明するのに窮してしまう。だって、共産党は「一過性」「暫定」「さしあたって」政権のための協議に臨んでいるなどと、相手に対して言えるわけがない。

 

 いや、本当なら、新安保法制に決着をつけたら、内閣から外にでて、あるいは解散して、安保条約の廃止そのものを問う政府をめざしたいと言う選択肢はあった。それなら、他の野党との関係も「一過性」のものであり、その時点で他の野党だけでつくる政府は共産党にとって打倒の対象になるのだから、他の政策でも一致が必要だとか、対等平等・相互尊重などを求める必要性もなかったのだ。

 

 しかし、実際に協議をしてみると、新安保法制以外にも政策的な一致点ができてくる。安保条約や消費税を基幹税制と位置づけるか廃止するかなど、基本政策での一致は引き続き存在しないのだが、その周辺の部分的な政策では少なくない一致が見られた。まあこれは、自公政権が出してくる法案を阻止したり、改善を求めたりする国会共闘が前進したおかげで、それが部分的な政策共闘にまで発展したわけである。

 

 こうした経過を経て、共産党指導部のなかでは、この野党政権は「一過性のものではない」という、まったく新しい認識が生まれてくるのである。志位氏は、野党政権を樹立することが、「日本の政治にとっての必然的発展方向」だとまで提起している(同前)。

 

 「必然的発展方向」ということになると、民主連合政府をつくるためには、野党政権を経なければならないということになる。現在、立憲代表選挙の各候補者が共産党との共闘に否定的な態度を取っているが、共産党の側は野党共闘にしがみついているのは、この「必然的発展方向」論を否定するわけにはいかないからである。

 

 そして、共産党が立憲に対して、「対等平等・相互尊重」を求めるのも、このような認識から「必然的発展方向」として生まれるものなのだ。だから、野党政権をどう位置づけるのかについて、綱領上の探求が必要なのに、党幹部の誰かがそれをしようとしているようには見えない。

 

 ということで、次の連載で、私がそれを試みてみる。