〈前文だけご紹介します。結論部分は次回配信ですが、来週はお盆休みなので、再来週になります。〉

 

部分社会論と統治行為論には共通の系譜と本質がある・上

 

 田中耕太郎をご存じだろうか。1915年に東京帝国大学を主席で卒業したエリートで、専門は法学(商法)であり、37年から同大学法学部長に就任した。

 

 戦後すぐ、第1次吉田茂内閣で文部大臣を務めたのち、1950年3月3日から第2代最高裁判所長官を務めた。長官在任期間は3889日というから(退任は60年10月24日)、10年を超える長さであり、現在に至るも歴代1位の記録は揺らいでいない。

 

 いま放映中のNHKの朝ドラ「虎に翼」にも最高裁長官として登場した。主人公の寅子の前で、「家庭裁判所の判事は女性がやるのがふさわしい」と発言し、「はて」という言葉のあとにきびしく反撃される役回りであった。スッキリした方も多かろう。

 

 なぜ突然、メルマガで田中の名前を出したかというと、私の裁判に大いに関係があるからでだ。最高裁長官を50年からの10年もやったということは、日本が52年に「独立」してサンフランシスコ条約や旧日米安保条約を結んだ過程から始まり、新安保条約締結の60年まで司法のトップの場にいたということである。戦後日本政治の骨格ができあがった時期なのである。この時期の最高裁長官の判断が日本に与えた影響はバカにならない。

 

 田中の判断の何が私の裁判の何に直接の影響を与えているかというと、その部分社会論である。政党、労働組合、宗教団体、地方議会、大学など部分社会内部の問題は、その内部で解決すべきものであって、除名などの処分についても司法が審査する対象にならないという理論である。それを最初に提唱したのが、最高裁長官だった田中なのだ。

 

 だから、除名されて裁判することになり、関連する文献に目を通すようになると、これまで安保条約の文脈でしか出会うことのなかった田中と、別のいろいろな場所で出くわすことになる。法律や裁判を専門にする人にとって、田中とその部分社会論は重要な関心事項であり、各種の見解が主張されているのだ。

 

 しかし、どれに目を通しても、なぜ田中が部分社会論を提唱したのか、その理由がどうも納得いかない。田中のそもそもの学説にそって解明しようという論文などもあるが、学者の見解に対して失礼であることを承知で言わせてもらうと、それらを読んでみても「なるほど」とは思えないのだ。

 

 そこで、私なりにこの問題を深めてみようと考えた。今回のメルマガは、その私の探求の結論である。