ようやく再開。「こんなテーマで記事を書いてほしい」という要望が多く、なかなか機敏には対応できないけれど。

 

 大ざっぱに言えば、第二次大戦後の共産党の再出発の際、共産党内ではソ連社会主義への無条件の賛美が主流だった。世界を見渡して、どんなに鋭敏な感覚を持っている共産党であっても、1956年のスターリン批判まではそこに間違いはない。

 

 ただし、スターリン批判まではソ連社会主義の実体が外に伝わっていなかったのかといえば、そうではない。イヤというほど伝わっていて。それを共産主義者が信じなかっただけだ。

 

 例えば1943年末、連合国は「連合国救済復興機関」を設立し、難民問題への取り組みを開始する。ここで手段となった「難民」とは、ソ連軍がナチスドイツをソ連と東欧から追いだす過程で祖国を逃れ出た人で、純粋な難民もいたわけだが、スターリンの弾圧と粛清に脅えて逃れ出た人、ソ連軍が憎しみから追い払った東欧在住のドイツ系住民も含まれ、約1300万人が対象になったと言われる。

 

 戦争の結末が見えてきた45年のヤルタ会談、ポツダム会談において、連合国はソ連の要望を踏まえ、ソ連国籍者を祖国に帰還させることで合意する。「連合国救済復興機関」は実際に200万人の帰還を実現したと言われる。けれども、帰国を希望しない人も少なくなかったし、帰国者が強制収容所に入れられたというウワサも伝わってくるなかで、帰還事業を継続するかどうかが議論になる。

 

 ソ連は帰還させるべきだし、帰還させないでいまの居住地に定着させるような事業なら、すぐに打ち切るべきだと主張する。しかし、人々には抑圧から逃れる権利、自分の住む場所を決める権利があるという議論が主流になっていく。

 

 その結果、1947年の国連総会決議にもとづき、3年間の期限付きで「国際難民機関」が設立される。後身の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR、49年設立)に仕事を引き継ぐまでの間、7万3000人の帰還を実現し、100万人以上の再定住を成し遂げたそうだ。

 

 こうして西欧諸国においては、スターリンの大戦中の国内での大規模な粛清やドイツを打倒する過程で行った東欧での悪行などは、陸続きで亡命者が続々と到着していたのでリアルに伝わっていた。従って、西欧の国々では、ソ連と東欧の社会主義は、ほぼ最初から深刻な人権侵害をもたらす体制として捉えられていた。

 

 共産主義者は、西欧であれ日本その他であれ、そういう事実に目を向けることもできたはずだ。しかし、そうはしなかったし、向けた場合があってもそれを信じなかった。いや、スターリンは「国際難民機関」が反ソキャンペーンに使われたとして、UNHCRの設立に反対したのだが、そのスターリンの言明のほうを信じたわけである。

 

 もちろん、私が当時すでに共産党に入っていたら、結果は同じだっただろう。いまだから批判的に言えるわけで、後付けなのだ。だが、みんながそう認識した原因を深いところで解明しておかないと、これからも似たようなことが起きかねない。(続)