1999年3月の23日か24日だったと思う。「赤旗」政治部(もう部長だったか安保班長だったかは覚えていない)の藤田健氏から、政策委員会にいた私に内線電話があった。興奮した声の怒りを伝える電話だった。

 

 何かと言うと、能登半島沖の不審船事件をめぐる党の対応への抗議だった。覚えている方もいると思うが、北朝鮮の2隻の不審船が日本の漁船名を騙って日本の領海内に入ってきたのに対して(その名前の漁船は1つは廃船になっており、もう1つは兵庫県で操業中だった)、海上保安庁が呼びかけたが応じずに逃走を開始。威嚇射撃も行ったが、何の反応もしないまま海保の巡視艇では追いつけないような高速で逃走を続けたため、今度は海上自衛隊に海上警備行動の命令が出て護衛官が爆弾を投下したり、空自の戦闘機まで投入されたが、結局、不審船は北朝鮮まで逃げ帰った事件である。

 

 なんだ、海上自衛隊は北の不審船1つ捕まえられないのかと思う人もいるかもしれない。しかし、当時の法律では、例えば警察官なら犯罪容疑者が車で逃走すればその車を射撃して停止させる権限があったが、海上保安庁や海自の警備行動の場合、威嚇射撃はできても船体射撃はできなかったのである。

 

 これに対して政策委員会では党の態度をどうするか協議し、政府のとった対応を批判しないことに決め、党内の了解をとった。当時、共産党は「非武装中立」としか表現できない政策をとっていたので、その見地からは反することになるが、目の前に犯罪を犯した可能性のある不審船がいるわけで、犯罪を見逃さない見地に立てば、不審船を停戦させ、乗組員を拘束して取り調べすることは不可欠だったと判断したからである。

 

 藤田氏の抗議は、この党の対応についてであった。もし無理矢理停戦させようとして不審船が反撃し、武力の応酬で戦争になったらどうするのだという抗議だった。戦争にしないためには不審船は見逃して、北朝鮮に逃げ帰らせたほうがいいのだ、憲法九条とはそういうものだ、党としてそういう対応をするべきだというものだった。

 

 私は、犯罪を見逃すような態度は党としてはとれないとして、党の決定の主旨をくり返すだけだった。それでもまったく納得してくれないので、決定に対して意見を出すのは自由なので、どうぞ常任幹部会にでも意見書を上げたらどうかと述べたら、それ以上の追及はなかった。実際に意見書を出したかどうかは聞いていない。

 

 別に藤田氏の批判をしているわけではない。何が言いたいかというと、やはり当時の党中央は自由だったということだ。党中央が決定したとしても、党専従が別の考え方を持つのは当然だし、抗議の意見を上げても構わない。そんな党風が残っていたということだ。

 

 現在、党中央からの指導があったとして、党が決定したことについては次の党大会までは意見も出せないという運用がされている党組織もあるようだが、当時はそんなことを考える指導者はいなかったのだ(一人くらいはいたかもしれないが)。あるいは、パワハラではないと決定したのだからパワハラだと思ってはいけないなんて、犯罪ではないと党が決定したら犯罪の告発もできなくなる(犯罪ではなくなるから)ということと同じで、党の決定ってすごい威力があるんだねというしかない。(続)

 

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