党大会での大山氏の指摘に対し、反論した3人が何も答えていない問題。本日は「結社の自由」問題である。大山発言の引用は前回と同じく以下である。

 

「『結社の自由』を唱えてみても、党内論理が社会通念と乖離している場合に、寄せられる批判を『攻撃』と呼ぶのでなく、謙虚に見直すことが必要ではないでしょうか。」

 

 「結社の自由」論をどう捉えるかの全体は、私の裁判の主要な争点であり、書き出すとキリがない。要するに、「結社の自由」を絶対化する共産党の立場は、提訴した日の共産党談話にあるように、私の提訴は憲法に反するもので、それは最高裁で確定しているというものだ。

 

 憲法を尊重することを明確にしている共産党が、その憲法で規定された裁判を受ける個人の権利を認めない立場だと公言するのだから、びっくりする。大山氏が提起しているのも、結社の自由を盾に個人の権利を完全否定する立場が、社会通念からして通用しないということであろう。大事なことは、結社の自由も出版の自由も憲法で明記された権利なので、どこにその均衡点があるのかを探っていくことである。

 

 それらの法的な問題は訴状に書いているので、関心のある方は見ていただきたい。中心問題なので、裁判を通じてさらに豊かに論証していく予定でもある。

 

 ここで書いておきたいのは、少しズレるかもしれないが、権力に対する中祖氏をはじめとする共産党の姿勢である。共産党は、除名された私が党大会での再審査を求めて活動をはじめると、私に対して「権力に射落とされた」とか「権力と結託している」という批判を開始した。中祖氏はその中心にいた。そう言っておけば、特に何も証明しないでも党員を納得させられるということだったのだろうが、それもここでは措いておこう。

 

 ここから分かるのは、共産党が「権力」を「絶対悪」と位置づけていることだ。しかも証明抜きで。

 

 それなのになぜその共産党が、権力中の権力である国家の司法権力、その中枢である最高裁の判例を天まで持ち上げるのだろうか。自分は国家権力に守られることを是としながら、私を権力の手先であるかのように言う矛盾は、いかんともしがたい。

 

 「お前もその最高裁という権力機関で新たな判決を得ようとしているではないか」と批判する人もいるかもしれない。しかし、私はこれから書くように、権力というものを共産党のように単純に見ていない。

 

 だって、共産党自身が権力の一部ではないか。そう言ったら驚かれるだろうが、じつは否定しがたい事実なのだ。なぜかと言えば、共産党は国権の最高機関である国会に議席を有しており、立法権力の一部を担っているのだから。

 

 多数になって政権に入らないと権力を持ったことにならないと思っているかもしれないが、そんなことはない。例えば野党の国会議員の質問であっても、権力の行使とみなされる。

 

 1989年5月、当時は野党だった公明党の国会議員がリクルート事件で受託収賄容疑で起訴されたが、これはリクルート社から依頼を受けて国会で質問し、見返りに値上がり確実な未公開株を受領したというものだった。これが犯罪となるのは、野党であっても国会議員の質問が権力(質問権)の行使として国政を動かす力があるからで、それに対して企業が賄賂を提供するわけだ。「赤旗」などを見ると、「共産党の国会議員の質問が政治を動かした」という類いの記事が毎日載っているが、共産党議員が国家権力の一部だからそれが可能になるのだ(賄賂は受け取らないから犯罪にならないけれども)。

 

 それを恥じる必要はない。だって、日本国憲法の原理は、国民が主権(権力)を有していて、その代表として国会に送り出した議員が立法権力を担い、国会で多数を占めたら行政権力を行使するという構造になっているからだ。

 

 そうやってできあがった権力が、相対的に国民から離れて独立して勝手に権力を行使しはじめるという問題は監視しなければならないし、だから権力との闘争は必要なのである。しかし、権力の正当性が国民主権に由来するという原理自体は正当なものである。だから議会を通じて多数を得て平和的に革命を行うのだ。権力は敵で、共産党は権力とは無縁だというような思考は、日本の国家権力を握っているのはアメリカ帝国主義と日本独占資本だ、だから国会で多数を占めて政府権力を樹立しても、それでは革命にならず、その時点から本格的な権力との闘争が開始されるのだという、すでに捨て去った61年綱領の思考なのである。

 

 ちょっと大山氏の問題提起と乖離してしまったね。反省。次回は問題提起に戻ります。(続)