大山氏の発言を受けて、それに対して十分に準備された反論を中祖氏はじめ3氏が加えたはずなのに、大山氏の提起には誰も何も答えなかった問題がある。本日はその2番目。以下の大山氏の発言である。

 

「『結社の自由』を唱えてみても、党内論理が社会通念と乖離している場合に、寄せられる批判を『攻撃』と呼ぶのでなく、謙虚に見直すことが必要ではないでしょうか。」

 

 ここには2つの問題がある。1つは、党は「結社の自由」を絶対化することで、党内の処分に司法は介入するなと主張しているわけだが、その問題。もう1つは、それも含めてだが、「党内論理が社会通念と乖離している」問題である。

 

 まず後者を取り上げよう。これはかねてから共産党にとって大きな問題だった。

 

 共産党が使う用語は、もともと共産主義運動由来のものが少なくない。その共産主義運動は、誕生した時代においては議会を通じた平和的な変革とは縁遠いものだったし、かつロシア革命が暴力的な形態をとったこともあり、使う用語には軍事的な意味合いをもつものが多いのだ。

 

 例えば、日本共産党綱領に12回も出て来る「統一戦線」。何気なく使っている人も多いだろうが、「戦線」とは、読んで字の如く、そもそもは「戦闘が行われている区域。第一線。戦場」(大辞林)のことだ。それが転じて政治運動にも使われるようになっているが、一般政治用語として普遍化されるまでには至っていないので、社会通念とはかけ離れている。共産党の人はなぜ戦争用語を使っているのかと思われやすいのだ。

 

 大山氏が指摘した「党攻撃」も、今回の除名問題をはじめ、党指導部は好んで使う。これもスポーツの場面で使われると違和感はないが、国連憲章で武力攻撃(armed attack)とあるように、もともとは戦争と結びついている。しかも、武力行使(use of force)と比べても強度が高い概念である。国連憲章でも、自衛権が発動できるのは、武力行使のような低いレベルではなく、武力攻撃があったときだけだとされる。

 

 志位氏だったか、中北氏関連で「なぜ攻撃か」と問われ、根拠のない批判を攻撃だと言うのだと弁明したが、そんな字釈を載せている辞書にはお目にかかったことがない。党員は「党が攻撃されている」と言われると奮い立つから、党指導部はそういう言葉を意識的に使うのだろうが、同じ言葉を聞かされた一般の国民は、「共産党はいまから戦争を始めるのか」「政権を取ったら武力を使うのか」と身構えて党を見つめるだろう。

 

 しかも、用語の問題ではなく、やっていることが社会通念と乖離しているから、余計に党を見る目はきびしくなる。党大会の前と後に、何人かの党員が顔を隠し、本名を名乗らないで記者会見をして話題になったが、共産党員が党に批判的なことを外で表明するのは命がけなんだという現実が伝わることになった。しかし、党指導部の誰も、「異論があれば堂々と記者会見していいんだ。党は処分などしない」とは言ってくれなかった。田村委員長は、ラオジオ番組でそのことを問われ、誰がやっているか分からないので答えようがないみたいな返事をしていたが、誰がやっているか分かれば処分されるのだから、本当に命がかかっているのだ。あまりに社会通念からかけ離れている。

 

 それどころか、記者会見をしたり、SNSで意見を述べただけの党員を摘発する秘密方針が2中総で決められたりしているのだから、ますます党は社会通念から乖離していく。「攻撃にたいして反撃せよ。処分、除名は当然だ」という党中央が発する言葉は、「相手が戦争をしかけているのだから、党の側もそれに相応する実力的な手段で対抗するのだ」と言っているのと同じで、有権者から完璧に乖離しているのである。

 

 大山氏など議員は有権者との接点があり、そんなやり方は通用しないと体験で分かるので、社会通念には気を使う。大山氏を批判した3人(「赤旗」記者と中間機関の幹部)だって、本来は有権者の心に響く言葉を発しているかは大事なはずだ。それなしに「赤旗」も党員も増えないのだから。しかし、大会での発言を見る限り、国民とつながるための言葉を発する能力があるかないか以前の問題として、そのための意思が欠如しているように見える。党活動の現実が反映しているのだろう。党勢拡大がうまくいかないはずである。

 

 「結社の自由」問題は3番目の問題として、次回に回す。(続)