「赤旗」を題材にすると、何でも論評できることが分かった。書評やテレビ評もできちゃうね。

 

 日曜日の夜に「舟を編む」が連ドラになっている。よく知られているように、2011年発売の小説『舟を編む』(三浦しをん)が原作である。夜の10時はすでに寝ているので、録画して見ており、ようやく現実の放送に追いついてきたところだ。

 

 13年前の原作と登場人物は基本的に同じだが、時はそれなりに過ぎている。原作で主人公だった人は、その当時は辞書編集部に引き抜かれてきたばかりの設定だったが、テレビではすでに主任である。そしてテレビでは、辞書編集部に来たばかりの新人(女性)が主人公となり、話を引っ張っていく。

 

 興味深いのは、この13年間に変わったこと、変わらぬことである。それが辞書のあり方を考えさせるのだ。

 

 原作では、辞書編集部に来たばかりの新人(女性)が、校閲をしながら「愛」の語釈に違和感を覚える。2番目の語釈が「異性を慕う気持ち。性欲を伴うこともある。恋。」とあったからだ。13年前だから、愛と言っても男女間だけではないという感覚はそれなりに広がっていて、新人が違和感を覚えるのは自然だっただろう。そしてこの新人はこう言うのである。

 

「新しい時代の辞書なんじゃないですか。多数派におもねり、旧弊な思考や感覚にとらわれたままで、日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺らがぬ言葉の根本の意味を、本当に解釈することができるんですか。」

 

 そして、「異性」ではなく「他者」にすればどうかと提案する。これに対して、上司が言う。「慎重を期するあまり、辞書ってちょっと保守的なところもあるんです」と。

 

 原作では、結果として「愛」の語釈をどうしたのかは描かれていない。一つのトレンドが生まれているということと、それを「辞書」で取り入れるか、取り入れるとしてどうするかは、なかなか簡単ではないと思う。だって「辞書」って、独自の存在意義を売り物にする場合は別として、万人が納得できるものでなければならないからだ。それに「恋愛」とは「他者を慕う気持」だと辞書にあったとして、それもどうかなという感じがする。

 

 そうやってテレビを見ていたら、13年後の現代なのだが、「愛」の語釈に関して同じ違和感を新人が語っていた。ということは、少なくともテレビの制作側にとって、13年前の躊躇は現在にも通じるという判断があったのだろう。トレンドは大事にしなければならないが、「慎重を期するあまり、辞書ってちょっと保守的なところもあるんです」という躊躇である。

 

 これが政治の世界に似ているというのが、私の素朴な感想である。その点を明日に。(続)