〈本日の「赤旗」に谷本諭理論委員会事務局長の中北浩爾批判の長大論文が掲載されている。党外の人を批判するのに党内でしか通用しない(というか党員なら誰でも書ける)論理の枠内でやるなんて、理論の風上にもおけないのは現在の党中央の現実だから仕方がないとして、またもや私が「支配勢力に屈服した」と書かれているので、その問題でこの間考えたことを書いておく。なぜ党中央は「権力と結託した松竹が党破壊活動をしている」という妄想に捕らわれるようになったのかだ。そこにはスターリン以来連綿とつづく共産主義思想の闇がある。〉

 

 「党破壊者」にしても「権力と結託」にしても、普通の人はあまり目にしない言葉である。何をしたら党を破壊することになるのか、権力とはどんな人のことで、結託とはいかなる関係を持つことなのか、イメージもしにくいと思う。

 ただ、共産党のなかでは、党内に党を破壊する人間がいるとか、そういう人間が権力と結びついて破壊行為を企んでいるという考え方は、時として浮上することがある。私が今回の裁判で判例を覆そうとしている事件の当事者である袴田里見に対しても、党からはそういう言葉が投げかけられた。

 この言葉と概念は、もともとはヨシフ・スターリンが編み出したものである。しかも、一九三〇年代のソ連で実施された大規模な政治弾圧のなかで使われ、定着した歴史を持っている。そういうものであるだけに、日本共産党の一九六一年の綱領には存在していたが、さすがに二〇〇四年に全面改定された現綱領からは取り除かれたものである。その事情を紹介しておきたい。

 

●スターリンによる大量虐殺の実態

 ソ連が崩壊して三〇年以上が経つ現在、スターリンの政治弾圧と言われても、何のことか分からない人の少なくないだろう。簡単に解説しておく。

 一九一七年のロシア革命で誕生したソ連では、当初、イリイチ・レーニンが国家と党を率いていた。しかしレーニンが一九二四年に亡くなると、政治路線の上でもそれを担う指導者の選択の上でも、激しい抗争がくり広げられる。その結果、レフ・トロツキーが失脚し、二九年に海外へと追放され、スターリンの権力が確立していく。

 三〇年代半ばまでは、スターリン以外にも、革命に貢献し、地位を得ていた指導者が存在した。ニコライ・ブハーリンもその一人である。

 しかし、三七年から三八年にかけて、一三四万人以上が即決裁判で有罪となり、六八万人以上が死刑判決を受け、六三万人以上が強制収容所や刑務所に送られた。とりわけ共産党員とくに幹部はその標的となる。ブハーリンをはじめジノヴィエフ、カーメネフなど、スターリンに対抗する能力があると思われていた幹部はほぼ全員が死刑に処せられた。三四年に開かれた第一七回党大会に参加した代議員一九六六人のうち、一一〇八人が逮捕され、大半が銃殺刑になったとされる。その大会で選出された中央委員(中央委員候補を含む)一三九人中一一〇人が処刑されるか、自殺に追い込まれた。外国にいた党員も被害者であり、トロツキーは四〇年に暗殺される。

 スターリンがなぜこれほどの大虐殺を行ったのかについては諸説が存在する。それがその後のソ連とソ連共産党、世界の他の共産党にどう影響したのかについても同様である。それは、本書の主題とも関係ないように見えるが奥で深くつながっているので、本節の最後で私の考え方を提示する。その前に、スターリンによるこうした大虐殺のなかで、「破壊者」や「権力との結託」という考え方がどのように使われたのかを解説しておこう。

 

●スターリンによる「党破壊者」認定の使われ方

 まず「破壊者」である。スターリンの次の言葉を引用しておこう。

破壊分子、妨害者、スパイ等々について一言。いまでは誰にも明白であると私は考えるが、今日の破壊分子、妨害者は、トロツキストであれブハーリニストであれ、彼らがいかなる旗でカムフラージュしていようと、とっくの昔に労働運動における政治的潮流であることをやめて、職業的破壊工作者、妨害者、スパイ、殺人者に転化した。これらの紳士たちを、労働者階級の敵として、わが祖国の裏切り者として容赦なく粉砕し、根こそぎにしなければならない。」(『反ソ「右翼=トロツキスト・ブロック」事件裁判記録』モスクワ、一九三八年、五五一頁)

 短い文章のなかで、「破壊」という言葉が三回も使われている(太字は引用者)。このスターリンの言葉に出て来るブハーリンの妻アンナ・ラリーナの『夫ブハーリンの想い出』に資料的に掲載されたものである(下巻二八〇ページ)。ラリーナはこの言葉を、「スターリンが彼らに浴びせた次のような恐るべき中傷」として紹介している。

 ラリーナの本のなかでは、これ以外にも、ブハーリンが「破壊者」呼ばわりされる場面が、いくつも登場する。例えば、ブハーリンが裁判にかけられて宣告された罪名について、「裁判の告発の無恥さと荒唐無稽さは私の予想を完全に凌駕していた。……いかなる犯人といえども、このような量の犯罪は生涯のうちになしうるはずがなかった」として、次のような罪名だったことを述べている。

「スパイ活動と破壊活動。ソヴエト連邦の分割と富農反乱の組織。ドイツ・ファシストのグループ、ドイツ諜報部、日本諜報部との結びつき。未遂に終わったスターリン殺害のテロルの企て。キーロフの暗殺。右派エスエル女性党員カプランによって行われたどころか、カプランの手はブハーリンの手であったという一九一八年のレーニンに対するテロ行為。病気で以前から仕事をすることもできなくなっていたメンジーンスキー、クーイブイシェフ、ゴーリキーの殺害。さらにはエジョーフ毒殺の試み。」(上巻四七〜四八ページ)

 三七年二月には、ブハーリンの除名と監獄行きを決める共産党の中央委員会総会が開かれた。その招集通知が届けられた際、ブハーリンは、「裏切り、破壊工作等々の前代未聞の告発に抗議して、私は死を覚悟したハンストを宣言し、無罪と認められるまで解除しない」(下巻二四五ページ)と言ったそうだ。中央委員会総会の議事のなかでブハーリンの告発演説を行ったエジョーフが、ブハーリンによる「破壊工作、富農反乱の組織、ソ連邦の割譲……」(同前二五九ページ)などの罪を強調したことも紹介されている。こうして、二月二七日に開かれた中央委員会総会は、ブハーリンを「党中央委員会から追放し、党から除名すること、逮捕すること、取調を続行すること」(同前二七五ページ)を決定したのである。

 ブハーリンだけではない。党員が党の破壊活動をしているという認定は、死刑となった人々全体に共通するものであった。

 

●権力と結託した党攻撃のアイデアもスターリン由来

 ただし、ブハーリンが「破壊者」だというだけでは、スターリンにとってさえ説得力が欠けたのだろう。なぜなら一人の党員が巨大な党と国家──しかも軍隊や諜報機関を掌握する政権党である──を破壊するというのは、いかにも妄想のようなものだからだ。そこでスターリンは、ブハーリンと権力との結託というアイデアを、何とかつくりだそうとする。私に対して日本共産党が襲いかかったのと同じ経過を辿り、似たような結論に達するのである。

 私は日本にいるので、日本の権力と結託しているいうアイデアは──実際にそんな結託はないのだが──、私が望めば不可能ではない。しかし、ブハーリンがソ連の権力と結託していると主張しても、その権力を実際に動かしているのはスターリンなので、あまりにも現実味に欠ける。そこでスターリンは、一〇年ほど前に外国に放逐したトロツキーが、外国の権力者と結びついてブハーリンを動かし、ソ連を破壊しようとしているとするシナリオを描いたのである。

 ブハーリンの死後に裁判記録は一九三八年には刊行されている。トロツキーはそれを読み、自分が外国の元首らと結びついて彼らを服従させることで、ブハーリンらを通じてソ連の国家機構を支配しているとの妄想が記録されていることに驚愕することになる。その問題をこう書いている。

「この犯罪行為〔ソ連国家を転覆させる犯罪〕において、〔外国の〕元首、大臣、元帥、大使らは確実に一個人〔トロツキー〕に服従した。公的な指導者では決してなく、追放された一人に。トロツキーは指を鳴らすだけで十分であった。…しかしここに困難な事が起こる。…私〔トロツキー〕に従っているトロツキストたちによってこの重要な機構のすべてが支配されているとしたら、そのような場合に、なぜスターリンがクレムリンに居り私が追放されているのか。」(鹿砦社『ブハーリン裁判』所収のトロツキー「反対派ブレティン」二〇〇~二〇一ページより、〔〕内は引用者)

 トロツキーが述べているように、そんなシナリオは「困難」なはずなのである。トロツキーが外国の権力者を使い、ブハーリンらを動かしてソ連の重要機構を支配しているとしたら、なぜスターリンだけは動かせないのかという不合理に気づく人が出てくる可能性があるからである。しかしスターリンにとって、とにかく反対者を抹殺できるなら、そんなことはどうでも良かったのである。

 

●「権力による党破壊」認定が党員の心を捉えた結果

 それにしても、希望に胸をふくらませてロシア革命に参加し、ソ連の国づくりに参加していた人々は、ほとんどが真面目な人だったはずだ。ブハーリンのように有能な幹部も多数いた。それなのに、共産党幹部のほとんどを殺害し、一〇〇万人以上が処刑されるようなことが可能になるとは、ほとんど信じられないことである。スターリン一人が特別に残虐で権力を手中にしているだけでは説明ができない。次々に幹部が殺されているわけだが、それぞれの時期で残っている党幹部の大半は、ただ怖いからスターリンに従ったというだけでは説明ができない。

 じつは、のちに虐殺された人々も、それ以前の段階で別の幹部が虐殺されていた時点では、それを正当なことだと考えていた。それだけではなく、自分が虐殺される段階に至っても、自分の死を前にしてスターリンを褒め称える場合があった。前出の『夫ブハーリンの想い出』には次のような記述もある。

「ブハーリンにしても人びとへの最後の声明で同じことを言った。『スターリンによって保障されている国の賢明なる指導は万人に明らかである。そうした意識をもって私は判決を待っている。問題は悔悟した敵の個人的体験にあるのではなく、ソ連邦の繁栄、その国際的意義にある』と。……

 さらに、光栄ある司令官イ・エ・ヤキールは銃殺の瞬間に(二十回大会の結語でエヌ・エス・フルシチョーフが述べたことから判断すれば)、『党万歳、スターリン万歳』と叫んだ。」(上巻二二九ページ) 

 当時のソ連共産党員は、世界ではじめてツァーリの「権力」を打倒して社会主義革命を行い、国家の建設を進めている共産党に特別の誇りを持っていた。だから、ブハーリンにしても農業集団化の問題などではスターリンに真っ向から反対するなど、どんな政策、政治路線を進むかについては、堂々たる態度をとったのである。

 しかし、「権力」と結びついているとか、愛する党と国家を「破壊」するという話になると、別の感情が生まれてくる。ブハーリンにとっても、この党は絶対に破壊してはならないものであり、党を否定することは、革命に捧げた自分の人生を否定することになるのである。

 そういう感情は、ブハーリンを見ている党員にとっても同じことである。政策の違いは認めても、権力と結びついて党を破壊するような人物は、論証の必要もなく犯罪者だということになるのだ。

 スターリンが大虐殺を行えたのは、共産党員の党への愛情を、「権力との結託」とか「党破壊」という言葉で扇動したからなのである。党員の多数がそれを受け入れたからなのである。

 

●日本共産党も克服をめざした「スターリン時代の中世的な影」

 スターリン的な理論、思考方法がは、ただソ連の共産党をその後も支配しただけではない。世界の共産党に決定的な影響を与えることになった。日本共産党も例外ではない。共産党は二〇〇四年、一九六一年綱領を廃止して全面改定を行った。改定を主導した不破哲三氏(当時は議長)は、大会の場では「なぜ全面改定か」をあまり語らなかった。しかし、八年が経過した党創立九〇周年の記念講演で、衝撃的な告白を行った。旧綱領には「スターリン時代の中世的な影」があった、それを最終的に消しさったのが新綱領だというのだ。以下、引用しておこう。

「(旧綱領の制定以来)われわれは、ソ連や毛沢東派との論争の中で、また日々ぶつかる日本と世界の諸問題との切り結びの中で、理論のかかわる全領域にわたって、マルクス以来の科学的社会主義の本来の理論と精神を復活させ、スターリンが持ち込んだえせ理論体系を克服する仕事に全力をそそいできました。」

「わが党は、二〇〇四年の第二三回党大会で党綱領の抜本的改定を行いましたが、新しい綱領には、六一年以来の党の理論的発展のすべてを盛り込みました。

 そして、われわれが半世紀にわたって取り組んできたこの仕事は、スターリン時代の中世的な影を一掃して、この理論の本来の姿を復活させ、それを現代に生かす、いわば科学的社会主義の「ルネサンス」をめざす活動とも呼べるものだ、と私は思っています(拍手)。」

驚きの告白だと分かってもらえるだろう。

 不破氏が指摘した「スターリン時代の中世的な影」の中心をなすのは、ソ連や社会主義体制を平和勢力と描くなどの問題である。あるいは資本主義が全般的危機に陥っているというような情勢分析も含まれる。しかし、それ以外にも、当事者が自覚できないさまざまな理論、考え方があった。六一年綱領と〇四年綱領では、ただ言葉が優しくなっているというだけでなく、思想的な転換が行われた。

 「党破壊」という用語と考え方もその一つである。六一年綱領は次のように「党破壊」との闘争の重要性を指摘している。

「日米支配層の弾圧、破壊、分裂工作、反共主義をはじめ各種の思想攻撃などとたたかいながら遂行されるこの偉大な闘争で、党は人民大衆とかたくむすびつき、その先頭にたって先進的役割をはたさなければならない。」

 この場合、冒頭にある「日米支配層」が「権力」を意味する。その権力から共産党に対する「破壊」活動がされているので、共産党はそれと闘わなければならないというのが、六一年綱領の基本的な考え方であった。党員がその権力と結託して「党破壊」活動をするなら、その党員を「党破壊者」と認定して糾弾することになるのは当然であった。

 当時、五一年綱領にもとづき武装闘争を行った共産党に対して、政府は破壊活動防止法の調査指定を行って監視を強めていた。共産党大会の度に誰のものか不明だが盗聴器が仕掛けられているのが発見されていた。党の県委員長が公安調査庁のスパイだったとして除名されることもあった。そういう状況下で、六一年綱領の「破壊」規定は存在していたのである。

 しかし、〇四年綱領にはそういう規定は存在していない。「破壊」という用語は四か所にわたって出て来るが、三か所は「環境破壊」の文脈であり、一箇所は国際秩序の「破壊」という意味でしかないのである。

 

●なぜスターリンの影が復活するのか

 公安調査庁による破防法調査指定は続いているので、党として警戒心を持つことは当然であろう。けれども、党員による党への批判に対して、スターリンによる大虐殺を可能にした「破壊」という用語を使って対応することは、〇四年綱領で一掃した「スターリン時代の中世的な影」を甦らせ、六一年綱領にまで戻るやり方と言わざるをえないだろう。

 なぜスターリンが生みだした思考方法を、いまの日本の共産党が採用するのか。綱領改定でスターリンの中世的な影をふっきったのに、また逆戻りするのか。共産党の主張では、ソ連は遅れた社会主義だったが、日本は進んでいるので同じことは起きないと説明されてきたのに、なぜ同じことが起きるのか(同じと言っても権力を有しているソ連では大量虐殺で、権力のない日本では党員の除名や名誉毀損、パワハラなのだが)。

 共産主義は、もともとマルクスが「すべてを疑え」と言ったように、自分の正しさをも疑う誠実さが内包されているのだ。現在の共産党員も同じで、理論や政策の問題では「これは間違いだ」と考え、党内で議論されることがある。しかし、「権力と結託した党破壊」「支配勢力に屈服した党破壊」ということになると、党への愛情が優っている分、思考が停止してしまいがちとなる。そこはスターリン時代のソ連もいまの日本共産党も似たところがある。当時のソ連といまの日本で共通して起きているのは、党員の党への愛情を利用して、党の主張が極端であればあるほど、その主張を批判的に見ることをさせない問題である。党中央が打ち出すどんな概念でも相対的に見る努力をしないと、結局、同じことになる。