山下報告は、自衛隊の憲法論に関する私の主張について、次のようにのべている。

 

「松竹氏は、「再審査請求書」のなかで、自衛隊問題について、「政党としての共産党は自衛隊合憲論をとるべきだ」との主張を繰り返している。しかし、わが党の綱領は、「国民の合意で憲法第9条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」と、自衛隊を憲法違反とし、国民の合意で段階的に解消していく方針をとっている。この方針のもとで、わが党が参加する連合政権ができた場合に、連合政権の対応としては、自衛隊と共存する時期は「自衛隊=合憲」の立場をとるが、日本共産党としては一貫して「自衛隊=違憲」の立場を貫くことを明らかにしている。「政党としての共産党は自衛隊合憲論をとるべきだ」という松竹氏の主張が、綱領と党の方針に反する主張であることは明瞭である。」

 

 ここに明確に書かれているように、共産党も明確に「連合政権の対応としては、自衛隊と共存する時期は「自衛隊=合憲」の立場をとる」ということである。「党としては一貫して「自衛隊=違憲」の立場を貫く」としつつ、政権としては合憲なのである。

 

 山下報告は、その政権を「連合政権」と規定しているので、よく事情の分からない党員は、立憲などが首相として想定されている野党連合政権のことだろうが、その場合、共産党が少数なのでやむを得ないと考えるかもしれない。

 

 しかし、そうではない。私が再審査請求書で紹介したように、共産党が主導する民主連合政権、おそらく共産党閣僚が多数になり、首相も共産党が担うであろう政権になっても、自衛隊は合憲という立場をとるのである。共産党の方針からして、それでも他党派と連合をつくろうとするだろうが、たとえ単独政権でもそこに変わりはない。なぜなら、自衛隊を合憲とする理由は、連合政権かどうかには関係がなく、あくまで自衛隊を解散する国民合意が存在しないことに求められるからである。志位氏は次のように述べている。

 

「くわえてもう一つ問題があります。自衛隊が存在しているという過渡的な時期に、仮に、政府として自衛隊を違憲とするという憲法解釈をしたらどうなるでしょうか。ただちに、自衛隊解消の措置をとることが、 政府の憲法上の義務になります。そのような矛盾が生じることになります。ですから、民主連合政府ができたとしても、自衛隊が存在している過渡的な時期は、『自衛隊 = 合憲』論をとることになります。」(『新・綱領教室』下巻、二〇二二年四月刊行)

 

 この本が刊行された二二年四月は、前回紹介したが、志位氏が自衛隊を「専守防衛の部隊に改革する」と宣言したのと同時期である。半年ほど前の総選挙で自民党などから「立憲共産党」と揶揄され、野党の安保自衛隊問題での基本政策の違いの大きさを攻められた体験をもふまえ、数か月後に迫った参議院選挙には、野党間の違いを少しでも埋めて臨みたいという思惑があったのだろう。共産党の自衛隊合憲論は、立憲との連立の思惑から生まれた卑称なものではなく、もっと根本的なものだと言いたかったのだろうと思う。

 

 問題は、もし綱領の規定からすれば自衛隊違憲論しか取りえないということなら、この志位氏の言明も綱領違反になるということである。自衛隊は政権としては合憲とみなしていいとは、綱領のどこにも書いていないし、どんな大会決定にも書かれていない。

 

 たしかに、私の立場は、志位氏と比べるとさらに前に進んでいることは事実である。政権としては合憲だが、政党としては違憲ということになると、例えば党首である志位氏が民主連合政府で首相になったとき、国民に向けては自衛隊合憲論を説き、党の大会では自衛隊違憲論を説くという、まさにご都合主義に陥って、国民から信頼されないと思うからである。

 

 もし、どんな合憲論も綱領違反というなら、志位氏も綱領違反として指弾されるべきではないのか。志位氏が指弾されるどころか、議長職にまで登り詰める立派な合憲論を述べたというなら、私の合憲論が除名に値することとの整合性はどこにも存在しないのではないだろうか。(続)