社会党との政権共闘の可能性が失われる前後から、共産党は「革新の陣地」を広げる戦略を採用する。もはや社会党に頼れなくなったので、労働者、中小業者、女性、青年、学生などの各分野で、安保条約廃棄を掲げる革新勢力の陣地を広げ、独自に多数になる道である。

 

 それぞれの分野にそれを担う団体があるので、その陣地を拡大していくわけだ。私は当時、全学連の委員長をしていて、「これは全学連の加盟自治会を増やすことが大事だ」と考え、かなりの数の加盟を勝ち取り、その年(79年~80年)のトピックとなったと思う。その全体を包括するものとして、いわゆる「革新懇」が結成される。

 

 これは、昨日の最後に論じた「政策の正しさ」プラス「政策の実現可能性」という視点で言うと、「政策の正しさ」に重点を置いた戦略だった。「正しいことはやがて多数になる」という戦略である。

 

 しかし、それで通用するなら、この40年間、多少の浮き沈みはあっても、少しは前進しているはずである。けれども現実は後退を続けていたため、その路線からの脱却が急務となっていく。

 

 そこで打ち出されたのが、不破氏の「日本共産党の政権論」と題する「赤旗」のインタビュー記事だった。1998年8月25日付の「赤旗」であり、いまでもホームページで見ることができる。

 

 これは一言で大胆に要約すれば、それまでは共産党にとって政権共闘の要は日米安保条約廃棄だったのに、その路線を維持していてはいつまで経っても政権が視野に入ってくることはないと見定め、政権への新しいアプローチを宣言したものだと言える。安保廃棄の政権でなくても意味のある仕事ができる場合があるので、そこに挑戦していくわけだが、それだって過去のいろんなしがらみがあって簡単ではないので、自民党政権を倒すための野党の国会共闘からはじめて、政策共闘で信頼を積み重ね、やがて政権共闘にいたる展望を打ち出したものだったのである。

 

 この政権論は、たしかにそれまでの党の政権論の基本的な考え方を踏まえたものではあった。それまでだって安保廃棄が課題にならない政権論を打ち出したことはあったのだから、その応用問題的な性格は有していた。けれども、それまでは、安保廃棄を掲げない政権論を打ち出す場合だって、非常に暫定的なものとして打ち出すとか、あるいは安保廃棄の民主連合政権構想と二本立てで打ち出すとか、安保廃棄は一時的な非常措置のような位置づけでしかなかったのだ。それが98年インタビューによって太い路線として打ち出されたのだから、大きな変化があったと言える。

 

 とはいえ、そういう路線を進めるとなると、61年綱領は大きな障害となる。日米安保条約の即時廃棄と自衛隊の即時解散という綱領と、98年インタビューには大きな乖離があったわけだ。

 

 そこで不破氏は、まず2000年の大会で、三段階論を打ち出す。第一段階は安保も自衛隊も維持する段階、第二段階は安保は廃棄するが自衛隊は維持する段階、第三段階は自衛隊の解消に向かう段階という決定である。そして自衛隊活用論を打ち出した。

 

 さらに2004年の綱領全面改定が続く。近刊の『日本共産党の百年』は、「(2000年の大会)決議の内容は2004年の綱領改訂によって党綱領に明記されました」としている。現綱領には三段という言葉は使われておらず、こう書かれているのだが、中身は三段階論だということである。

 

「自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。」

 

 こうして、不破氏による路線転換は終わった(はずだった)のである。共産党が安保廃棄を掲げない政党との協力で政権をめざす障害が取り除かれたのである。他の野党とともに「変革の力」を形成できるはずだったのである。しかし、04年綱領によって過去のものになったはずお61年綱領は、なお共産党を呪縛していたのだった。(続)