三、規約を理解せず、踏みにじっているのは、除名した党の側である

1、言ってもいないこと(=「異論を許さない党」)を処分の理由にできない

2、私はいかなる意味でも「分派」を形成したことはない

3、分派を禁止する規定は旧規約には存在したが現行規約からは外された

4、内部で意見をあげるのは義務ではなく権利であり、反しても処分の対象にならない

5、党の内部問題と党外での意見発表、党首公選の問題をめぐって

6、規約にもとづく処分をしながら関連用語の定義を示さないのは許されない

 

2、私はいかなる意味でも「分派」を形成したことはない(承前)

 

  五〇年問題のなかで分派として除名されそうになった宮本顕治は、主流派の統制委員会が作成した「分派活動の全貌について」(一九五〇年七月四日)に対して、直後に厳しい反論を書いています(新日本出版社『日本共産党五〇年問題資料集2』所収)。宮本がそこで以下のように分派を定義していることに注目してください。

 

「増田春雄の家族と私は同一建物に他の数世帯と住んでおり、増田が家族のもとに帰れば、上級機関の同志としての私を訪れてあいさつするのは当然である。顔を出さない方が不自然である。こんなことまで数えあげて私の『分派活動』をデッチあげようとする心事こそむしろ問題である。 

 私は『分派』の規定についてはレーニンの規定『特殊の政綱をもち、またある程度閉鎖的となり、それ自身の党派的規律をつくろうと努力するグループ』の趣旨をのべたものであり、これはテーゼ草案への意見の中にもその趣旨が明記してある。」

 

 ここで名前の出ている増田春雄というのは、宮本が九州地方委員会に左遷されていた際、同委員会の文化部長を務めていました(元長崎県委員長。五〇年問題当時まで党員だった私の父の指導者だったので、私が大学生になる頃までお世話になった)。その増田が同じアパートに住んでいる宮本にあいさつに来ることさえ、主流派は分派の証拠としていたのでしょう。とんでもないことですが、今回、出版時期の調整を分派の証拠とすることと、それほど変わりがないように思います。

 

 宮本はそれを批判し、分派の定義を三つにわたって行っています。この宮本のイニシアチブで、その後、分派の禁止を盛り込んだ五八年の規約がつくられるのですから、現行規約で禁止されている分派も、その精神を受け継いでいるものと思われます。

 

 宮本の定義は、一つは「特殊の政綱」を持っているということです。政党は政治方針を定めた綱領のもとに結集するわけですが、その綱領とは異なる綱領を持つグループを指すということです。二つは「ある程度閉鎖的」なものだということです。「特殊の政綱」への支持者を増やすにしても、オープンにやってしまえば党への反逆だということが分かってしまうので、閉鎖的であることが求められるのです。そして、「それ自身の党派的規律」があるということです。それなりの規律を持っていないと、党指導部の切り崩しにも対抗することができませんから、これも不可欠な要素でしょう。

 

 では、党規約の分派の定義を類推させる宮本の考え方からして、私の言動は分派に当たるでしょうか。私に言わせれば、宮本の定義(もとになっているのはレーニンの定義)は、私の言動が分派には当たらないことを、明確に証明していると思われます。

 

 まず「特殊な政綱」というものは、私にも鈴木氏にも存在しませんし、「通知書」もそんなことは指摘していません。もし、二人が書いた本が「政綱」に当たるということなら、それもお門違いです。二つの本に共通する主張は「党首公選」程度であって、ここで詳述することはしませんが、他の問題ではほとんど二人の見解は異なります(微妙な違いも大きな違いもある)。そもそも、鈴木氏の本は、党綱領や規約への批判に充ち満ちていますが、私の本にはそれらを批判した箇所は一つもありません。私は、現在の綱領と規約が正しいと考えるが故に、党首選挙に立候補することを宣言したのであって、それらを批判するはずもないのです。綱領を批判する鈴木氏と、綱領は正しいと主張する私が、同一の「綱領」で結束しているなど、誰が考えてもばかばかしい妄想のようなものです。

 

 「ある程度閉鎖的」という宮本の定義も、私と鈴木氏の関係が分派でないことの証明です。「除名処分通知書」は、私が週刊誌に語ったことを唯一の根拠として分派を認定しているのですが、宮本が言うように、分派とは党に隠れて「閉鎖的」に行動するものだからです。私が出版の経緯を週刊誌に対して堂々と宣言したのは、やましい気持がひとかけらもなかったからであり、もし分派の形成を企んでいれば、そんな軽はずみなことはしなかったでしょう。分派ではないのですから、宮本があげた三つ目の「それ自身の党派的規律」も存在しようがありません。(続)