我が家は台風7号の通り道の真下に位置していまして、準備万端ですが、みなさんもお気をつけ下さい。

 

 本日は「余録」というより「本録」。そんな日本語は存在しないだろうけれど。

 

 その前に、先ほどYouTube動画をアップしましたので、ご覧ください。8月15日ですので、それに関連することをお話ししました。チャンネル登録もお願いしますね。

 

 さて、来年1月の党大会での除名再審査に向かうための記者会見(8月9日)を準備していて、最後にまとまって入れることにしたのが、共産党の50年問題と現在の共産党が抱える問題の比較であった。もともと、除名直後の日本記者クラブの会見で(2月6日)再審査を求める態度を明らかにしたが、記者からそれで復党できる可能性があるのかと聞かれ、とっさに50年問題で分派として排除されていた宮本顕治のことを思い出し、そういう事例もあるのだと強調したことが背景にあった。

 

 もちろん、宮本は除名まではされなかったし、50年問題と現在の共産党が抱える問題が本質的に異なることは承知の上である。さらに、宮本と自分を比べるなど畏れ多いことも分かってはいる。

 

 しかし、共通点もある。しかも、50年問題は克服するための綱領路線確立に10年を要したが、現在の問題はすでに打開の道筋が見えているものなので、ちゃんとお話ししておくことが党員に希望を与えるものだと考え、この比較をした次第である。

 

 何が共通しているかといえば、問題が生まれる直前、共産党が選挙で大きな躍進を経験したことである。共産党は1949年1月の総選挙で35議席を獲得する画期的な前進を勝ち取った。しかし、1年後の51年1月のコミンフォルム論評をきっかけに分裂が始まり、51年10月には暴力革命の51年綱領を採択し、その路線をめぐってさらに分裂が深刻化した。52年の総選挙では議席はゼロになったのである。わずか3年で35がゼロになった。

 

 その理由は明白だった。暴力革命の路線と党の分裂である。だから、統一と団結を回復し、前進を開始するために、61年綱領と規約の採択が不可欠であった。

 

 現在の共産党も、1979年に総選挙で39議席を獲得するという、きわめて顕著な前進を勝ち取った。しかしその後1980年以降、国会の議席数は時々の情勢の違いや、それにかみ合った方針が提起できたかどうかで変遷があるけれど、「赤旗」読者と党員数は40年以上にわたって減り続け、何分の一というところに至っている。国会の議席も衆議院が10議席、参議院が11議席と、全盛期からほど遠い状態である。3年でゼロになった50年問題と違い、緩慢な後退である。しかし、減り続ける状態に歯止めをかけられないところに、法則的なものが見えている。 

 

 40年にわたる後退のきっかけとなったのは、国内的には「社公合意」に見られるように、安保条約の廃棄という共産党の背骨とも言える政策、方針で協力し合える政党がいなくなったことがある(その背景には安保条約を日本の変革の上でどう位置づけるかという戦略上の問題が横たわっている)。国際的には、いうまでもなく社会主義国の崩壊と冷戦の終焉により、61年綱領の世界観の前提が崩れ去ったことであった。

 

 ただ、当時の党指導部はその点はよく分かっていた。路線に問題があるという点では、50年問題と同じ問題意識を持っていた。だから、20世紀型の共産党・共産主義の61年綱領(不破氏が「スターリン時代の中世の影が残っていた」と酷評した)を廃止し、21世紀型の共産党・共産主義をめざす2000年の新規約、2004年の新綱領を制定したのである。

 

 ところが、現在の党綱領、党規約にそういう画期的な意味があることが、党員はおろか党指導部にもあまり理解されていない。今回の『日本共産党の百年』を見ても、すべてが61年綱領・規約の発展で説明され、新綱領・新規約の意味が掘り下げられていない。

 

 でもだから、50年問題の時のように、最初から綱領を作り直すなどの大作業は不要なのである。新綱領・規約の神髄をつかめばいいのである。

 

 というのが記者会見の根本的な趣旨であった。あと1回だけ書く。(続)