よく考えてほしい。70年代に共産党が社会党との間で樹立しようとしていたのは、日米安保条約の廃棄を中心とした民主連合政府である。社会党も安保廃棄の旗を掲げていたし、それが国政の中心課題であるという点で、両党には共通の理解があった。

 

 一方、共産党がいまめざしている立憲との共闘というのは、その安保条約廃棄の旗を降ろした政策的一致点での政権共闘である。党中央の現在の綱領理解では、安保条約を廃棄しない政権は日本を戦争に巻き込む政権であるので、たとえ一時的にそういう政権ができたとしても、できるだけ早く打倒すべき政権という位置づけなのである。

 

 それでも政権をともにしようというのは、他に大事なことがあるから、安保のことはは脇において、短期間だけでも協力しようということである。そんな一時的、暫定的な政権のことなのに、本来は打倒すべき政権なのに、70年代の民主連合政府の際と同じ概念、同じ真剣さで接近しようとするから、まったくかみ合っていかない。

 

 70年代にも、いまの国民連合政府と同様、一時的暫定的な政権構想を共産党が提唱したことがあった。選挙管理内閣とか、ごく限定的な課題での暫定政権である。旧綱領で言うと、「よりましな政府」という位置づけだった。

 

 しかしその際、社会党との民主連合政府の探求と同じ用語が使われた記憶がない。「共通政策」も、「対等平等・相互尊重の選挙協力」も、「政権協力の土台としての『協力の意思』」もそうだ。

 

 選挙管理内閣の場合、そもそも選挙を管理することだけが仕事で、そもそも政策合意が存在しない。暫定政権の場合は、ロッキード疑獄究明とか消費税廃止とか、それなりの政策合意をめざすものだったが、それを達成したら解散して総選挙を行い、その選挙を通じて安保廃棄の民主連合政府をつくるのが共産党の基本的な考え方だったから、いま志位氏がかたくなに口にする「政権協力の土台としての『協力の意思』」」なんてほどのものは共産党にもなかったはずである。そんな一時的暫定的で、長く続けば日本を戦場にするような政権に、何か日本が根本から変わるほどの位置づけで臨もうとするから、他党との間でかみあわないのだ。

 

 いま志位氏に求められているのは、半世紀前の古い言葉を、まったく事情の違う共闘にそのまま当てはめることではない。2つの道がある。

 

 1つは、立憲との共闘が短期間で終わると割り切って、政権とか政策の合意はそこそこのものでよしとすることで妥協することだ。もう1つは、短期的には安保堅持の政権でも必ずしも戦争を起こすわけではなく平和の問題でも意味のある仕事ができるという方向へと考え方を転換し(中期的に安保を廃棄し、長期的に自衛隊を廃止するにしても)、安保自衛隊問題で立憲と共通の土俵をつくるのか。

 

 そのどちらかである。政権というのは政党にとってはもっとも大事なことなので、その問題で未熟であってはならない。志位氏一人が自分の頭のなかで抽象的に考えるのでなく、全中央委員、全党員がみずからの考え方を確立し、堂々と発言すべきである。(了)