私の『シン・日本共産党宣言』を読んで頂いた方は分かる通り、私は綱領も規約も支持している。というか、民主集中制の原則も含め、これまでの人生で一度も綱領と規約を批判したことがない。一方、私の「分派」の相手である鈴木氏は、綱領も規約も民主集中制もきびしく批判している。志位氏についても、鈴木氏は辞任を求めているが、私は党首公選で立候補して闘おうと志位氏に呼びかけており、志位氏が当選すれば当然、気持ちよく支持する立場だ。

 

 それだけの違いがあるのに、どこをどうこねくり回すと「分派」になるのだろうか。しかも即刻除名である。これが分派だということは、何でもかんでも党中央の言う通りだという人以外は、みんな分派になってしまうだろう。今のやり方を続けると、みんな除名で、党に残る人はわずかになってしまう。

 

 宮本顕治氏のことを振り返ると、連載の「上」で書いたように、分派だ、除名しろと全国の党組織から排撃され、宮本派の多くは除名された。しかし、宮本氏自身は除名されることはなかった。当時の主流派(徳田派)は、のちに多数派となった宮本氏からきびしく批判されることになるのだが、それだけ問題のあった徳田派も、宮本氏の除名までしなかったというのは、それなりに理性が残っていたということだろう。いまの志位指導部とどちらが理性的なのだろうか。

 

 その「理性」の発揮を求めて一言述べておきたい。8中総によると、すでに述べたように、支配勢力が党の綱領と規約(とくに民主集中制)への攻撃をおこなっていて、メディアとか私とかは、みんな支配勢力に乗っかかって綱領・規約を攻撃しているという論理になる。

 

 しかし、私は冒頭に述べたように、綱領と規約を批判したことは、自分の人生のなかで一度もないのである。それなのに、除名された松竹を利用して、メディアが(支配勢力が)綱領と規約を攻撃しているという論理って、ぜんぜんおかしくないか。もし党によるメディア批判に合理性があるとすると、このように言う場合だけではないか。

 

「松竹氏は、『シン・日本共産党宣言』のなかで綱領と規約を少しも批判していない。それをいまの情勢のもとでどう解釈すべきかを提案しているだけである。人生のなかで綱領と規約を批判したことは一度もないと言っている。それなのに、なぜメディアのみなさんは綱領と規約を批判するのに際して、松竹氏を利用できるのか。松竹氏を利用する場合、メディアの結論は綱領と規約は正しいというものにならないとおかしいので、ここで忠告しておきたい。」とか。

 

 いやじつは、松竹氏を利用した反共攻撃なるものは、どこにも存在していないのだけれどね。

 

 8中総と関連し、明日から連載したいことがあったのだが(本当は8中総で決めておくべき事項である)、宮本氏のことを書いているうちに、50年問題と宮本氏について、一言述べておきたいことができた。明日はそれだ。(了)