昨日紹介した小説を、8中総の志位報告を聞きながら、なぜ思い出したのか。それは、この間、全国でやられてきたことと重なるからである。都道府県委員会や地区委員会の幹部が支部にやってきては、「松竹パンフ」を使って党員を「指導」をしてきた。そして、私が綱領と規約に違反しており、「分派だ」という結論を説いていったわけである。

 

 小説では地区委員長が支部の党員に対して、「分派はアメ公、帝国主義、反動の手先、スパイとして党を内からコーランし破壊しようとくわだてておる」と述べるわけだが、昨日の志位報告でも、分派として除名された私や(名前は出なかったが)、その記事を書いたメディアは、「支配勢力」の思惑に沿ってやっているという決めつけをしていた。私なんか、生まれてこの方、「支配勢力」と呼ばれる人とは親しくなったこともなければ口を聞いたことさえないのだけれど(国会秘書をしていたので、さすがに顔を合わせた程度のことはある)、どんな証拠をもって私が支配勢力の思惑を受けて活動していると言えるのだろうね。

 

 まあでも宮本顕治氏も、50年代の当時、小説で描かれたように「米帝の手先」とか「吉田(茂)の手先」とか言われて、九州地方委員会に左遷されたのだから、共産党にとって「米帝の手先」とか「支配勢力との関係」など、証明は不要なのだろう。なんといっても「真理」を独占しているのだから。

 

 しかももっとも驚くべきことは、志位報告では、こういうことをやっていくことを、党大会(その党大会で私の再審査がやられることは党書記局からの手紙に書いてあった)に向けた今後の共産党の活動の重点に据えるというわけである。「支配勢力によるわが党の綱領と組織のあり方に対する攻撃を打ち破って、……政治的大攻勢を」というわけだから。「日本共産党にかけられた攻撃は〝候補者〟にかけれらた攻撃」というのだから、今後、候補者は、私の名前などを出して、綱領違反だ分派だと騒ぐのだろう。

 

 けれども、統一地方選挙のあとの常任幹部会の声明では、除名を利用した反共攻撃の影響はなかったという総括だったのではなかろうか。それにもかかわらず、改めて除名問題をふまえて、綱領や組織原則に対する批判は「支配勢力」による批判だと強調していこうということは、現在に至るも、除名問題の影響を克服できていないということなのだろう。あるいは、これからも党内で綱領と規約に違反する分派の動きが出て来ると想定しているから、8中総で基本方針とされたということでもあろう。

 

 私に言わせれば、党内に分派など存在しない。でも、私程度のことが分派になるのだから、共産党が「これが分派だ」と認定すれば、不満を述べる党員が語り合っただけで「分派」になる。だから、分派が日本を覆い尽くす日は、そう遠くはない。いまの共産党は、分派の定義をゆるめておいて、その結果として全国どこでも分派がいてもおかしくない状況をつくりだし、自分がつくりだしたその亡霊に脅えているかのように見える。(続)