先日、立憲民主党が提出した岸田内閣に対する不信任決議案は、衆議院本会議で採決が行われ、反対多数で否決された。議院内閣制をとる以上、与党がこれに反対し、野党は賛成するというのが、これまでの常識的なあり方であった。

 

 もちろん、野党といっても与党との距離感はさまざまであり、できれば与党入りしたいと考える野党はかつても存在していた。しかしそんな野党でも、与党が安定して過半数を維持する状況では政権入りは覚束ないので、政権の危機を演出できる内閣不信任案では賛成する事例がほとんどだったと思う。

 

 最近、そこに変化が生まれていたが、今回、その変化がさらに深化することになった。日本維新の会、国民民主党が反対し、れいわも棄権することになったことで、内閣不信任案の提出が野党の足並みの乱れを国民に見せつけるほどのものになったと感じる。

 

 不信任案を提出するのが野党の大義であって、そこで日和ってはならないという考え方もあろう。しかし、野党がばらばらな様を国民に見せるということは、かえって政権の強さを国民に自覚させるものであって、本当に戦術として正しいのかを考えることもあっていいのではと思っている。

 

 今では野党のただのポーズと思われている内閣不信任案だが、30年前まではそうではなかった。不信任案が可決され、内閣が国会解散に追い込まれる事態が、かつては存在していたのである。

 

 戦後直後にも、吉田内閣で二つの解散(「いわゆる「バカヤロー解散」など)があった。その後も二つの事例が存在する。

 

 一つは、1980年の第2次大平正芳内閣である。この内閣は、もともと福田赳夫の派閥との激しい抗争のなかで誕生した不安定な内閣だったが(自民内の40日抗争)、80年5月、不信任案が提出されると、福田派などが欠席することによって、賛成が多数となったのである。衆参同時選挙が行われ、選挙中に大平氏が死亡したことはよく知られている。

 

 もう一つは、1993年の宮沢喜一内閣である。小選挙区制の導入など、いわゆる政治改革が問題になったが、自民党内の賛同を得られず、内閣不信任案が出されると羽田孜派などが賛成することになる。総選挙では過半数を得られず、日本新党など8党が連立する細川護熙内閣が誕生することになる。(続)