さて、1998年8月のことだが、不破哲三委員長が「日本共産党の政権論について」と題して、「赤旗」のインタビューに答えた(「赤旗」8月25日付、以下「98年インタビュー」)。これには当時、鮮烈な印象を抱いた。なぜなら当時、共産党が政権にかかわることなど、誰も想像できなかったからである。

 

 1970年代以降の共産党は、日米安保条約の廃棄を中心課題とする民主連合政府の樹立をスローガンにして、国民のなかで活動してきた。しかし、80年1月、社会党は公明党との間で政権合意を結び(いわゆる社公合意)、「「(共産党を)この政権協議の対象にしない」ことを明記する。しかもこの政権合意は、日米安保条約の容認につながるものであり、安保廃棄を課題とする民主連合政府のスローガンは、ここに現実味を失うことになったのだ。 

 

 98インタビューは、それから18年も経っていた。その間、日本の政治は、共産党を除く各党による政界再編に特徴づけられる時期に移っていた。93年に日本新党など8党が連立する細川護熙政権が誕生し、95年にはそれが破綻して社会党の村山富市氏を首相とする自民党との連立政権が生まれが、どの政権であれ安保条約の堅持を旗印にしたものであることに変わりなく、共産党は国会運営においても排除される時代が続く。ましてや、共産党を政権協議の対象とするような動きは、どこを見渡しても存在しなかった。

 

 当時の共産党は、このような政治状況について、選挙戦などでは「みんな『右へ倣え』でいいのでしょうか」などと表現していた。その時に不破氏が政権論をぶち上げたのだから、よく言えばその志の大きさというか、悪く言えば現実味のなさに、党員は何よりもびっくりしたと思う。それでも党員は、安保廃棄の政権しかないとして、必死で頑張っていたのである。

 

 98年インタビューの核心の一つは、安保条約の廃棄を課題としないまま、どうやって政権共闘を成し遂げるのかということにあった。不破氏は、そのインタビューで、安保廃棄の民主連合政府に接近するには、共産党が衆議院で100議席を超えないとだめだと言っているのだから、ほとんど現実味がないという認識をもっていたのだろう。

 

 一方で当時、細川政権や村山政権が誕生していたことは、すでに自民党だけでは国会での過半数をとれない状態が恒常化していることを意味していた。そして、インタビューのあった98年は、政党の離合集散の時代が終わりを告げ、政権交代可能な二大政党制をかかげて民主党が誕生し、いよいよ自民党に替わる政権をどうするのかが政治の焦点となりつつあった。

 

 実際、この11年後には民主党政権が誕生することになる。その時は民主党が単独で国会の過半数を占めたため、共産党は政権入りを呼びかけられることはなかったが、首相となった鳩山由起夫氏に私がのちに直接聞いたところによると、過半数に至らなければ共産党にも協力を呼びかける意思をもっていたとのことであった。当時不破氏が政権論を模索したことは、適切な判断だったと思う。2015年以来、志位氏が野党の国民連合政府構想を打ち出し、さまざま新しく踏み込んだ提起をできたのも、98年インタビューがあったからこそだった。

 

 しかし他方で、2015年以来の野党共闘の試みも、98年インタビューの水準にとどまった。このインタビューには、その後に行われた規約と綱領の全面改定は反映されておらず、そもそも制約を抱えていたのである。そういう問題意識を党指導部が持てなかったことに、野党共闘を行き詰まらせた原因があると、私は考えている。(続)