連載にかまけて、日々生起する問題への言及がおろそかになっている。次の連載前に少しだけ。

 

 核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」。核軍縮に焦点を当てたG7初の独立首脳文書が売りだった。その中身が批判されるべきものだったことは、私があらためて言うまでもない。

 

 ただ、この間、核兵器禁止条約ができてきた経過を見ると、大事なのは、核軍縮のなかみで各国の合意ができてきたことではない。核不拡散条約で決まっている核保有国の核軍縮義務が放置されるなかで、世界の非核国が核兵器禁止条約に向かった動機は、被爆者の地道な活動によって、核兵器の非人道性に焦点があたってきたことだった。核軍縮がまったく進まないなかで、それが突破口になった。

 

 その経緯を考えると、「G7初の独立首脳文書」ではなく、「G7初の首脳による原爆資料館の訪問と被爆者の話の聴取」こそ、歴史的に意義をもったものになったと考える。広島の地元紙の報道だったか、核のスイッチを押すバイデン大統領の指が狂ってはならないので、資料館で何を見るかの選別にも気を配ったという趣旨のものがあったが、それ自体、被爆の実相を各国首脳が見ることの意義を伝えていると思う。被爆の実相とか核兵器の非人道性というのは、日本に住む我々にとっては自明のことであるけれども、世界ではそうなっていないのだから。

 

 それと、もう一つ感じたのは、反核平和運動の見地と防衛の必要性の見地をどう統一するかである。被爆者なり平和運動が「広島ビジョン」を全面的に拒絶するのは正しい。しかし、政党がこれを批判する場合、核抑止力に頼らないなら、ではどうやって日本を防衛するのだというところまで対置しないといけないと思う。

 

 「広島ビジョン」の矛盾は、日本の世論の矛盾の反映である。核兵器はなくしてほしい、でも日本の防衛も危ういと、国民多数は感じている。そういうなかで、共産党は核抑止力を否定するだけでなく、「専守防衛」や「通常戦力の抑止力」まで「憲法違反」と切って捨てている。

 

 反核平和運動はあくまで運動論の立場で主張するが、政治勢力はもっと国民全体を見渡して多数派を形成できる主張を行う。そこに熟達しないと、政党としての役割は果たせない。