さて、朝鮮戦争に関する党綱領の記述が、いつどのように変わったのか。まず連載の第1回目でも紹介した制定当時の61年綱領である。

 

「中国革命の偉大な勝利、世界と日本の平和と民主主義と社会主義の勢力の前進に直面して、アメリカ帝国主義は朝鮮にたいする侵略戦争をおこないながら、日本をかれらの世界支配の重要拠点としてかためるみちをすすんだ。そしてアメリカ帝国主義は、かれらの目的を達するために、あたらしい手段をとった。1951年、アメリカ帝国主義と日本の売国的独占資本の共謀によって、ソ連邦や中華人民共和国などをのぞきサンフランシスコ「平和」条約がむすばれ、同時に日米「安全保障」条約が締結された。」

 

 それが85年の改定で、「アメリカ帝国主義は朝鮮にたいする侵略戦争をおこないながら」を「アメリカ帝国主義は朝鮮戦争を機会に」とした。アメリカの侵略というのを削ったわけだから、朝鮮戦争の評価自体は大きく変わったと言える。

 

 その際、なぜ変えたかについて、「赤旗」は大きな解説文を載せている(党出版局『綱領路線の発展』所収)。そこで、61年綱領でアメリカの侵略だとしていた理由について、「朝鮮戦争についての現行綱領の記述は、当時、世界の共産主義運動で一つのいわば定説となっていた」としているのは正直で良いと思う。自主独立路線はまだ途上であって、いまだ縛られていたのである。連載で書いたように、スターリンから押し付けられた暴力革命路線を進むきっかけとなった深刻な問題なのに、61年時点では、まだそういう状態だったのである。

 

 「朝鮮戦争=アメリカの侵略」説は、共産主義運動で定説だっただけではない。例えば公明党である。68年の青瓦台事件をきっかけに社会党が北朝鮮に取り込まれていった話はしたが、公明党も似たようなものだった。

 

 公明党が北朝鮮に最初の代表団を送ったのは1972年である。竹入委員長を団長とするもので、金日成主席に礼賛の言葉を連発した。公明新聞72年6月10日付には、アメリカは「1950年の朝鮮戦争時には一連の安全保障理事会決議によって共和国を『侵略者』と決めつけ、国連軍(じつは米軍)の名を騙(かた)って38度線を越えて武力攻撃を加えた」と書いている。74年の「公明党に関する50問50答」(『公明』臨時増刊号)も、「朝鮮戦争前後の米国の行動を見ると……朝鮮戦争が起こったときには一連の安全保障理事会決議によって、北朝鮮を『侵略者』と決めつけ、国連軍(主力は米軍)を派遣し、武力介入を行なったのです」とのべている。(続)