今回の連載は、冒頭に書いていたように、共産党は早くから北朝鮮に批判的な態度をとってきたのに、綱領の記述では長く「朝鮮戦争=アメリカの侵略」説をとっていた理由を探ろうとするものだ。綱領の記述がそうだったというだけでなく、批判的な態度をとっているのに、それを「赤旗」などでは公表しなかったため、党員のなかで北朝鮮への幻想が生まれたこともある。そういう趣旨であることを前提にして読んで頂くと、誤解を生むことはないと思われる。

 

 共産党が北朝鮮を公然と名指しで批判することになったのは、1983年10月のラングーン事件である。昨日紹介した川上さんの本でも、共産党が北朝鮮と「完全な断交状態に至る」ことになった事件として紹介されている。 

 

 ラングーン事件といえば、韓国の閣僚を含め40人が死傷し、世界に衝撃を与えた事件である。ビルマ(現在のミャンマー)政府当局が11月4日、北朝鮮工作員の犯行だと断定したこともあり、共産党は立木洋国際部長(当時)は11月5日の談話で「どの国によるものであれ、この種のテロ行為には絶対に反対」との見解を発表した。しかし、いまの引用文にもあるように、北朝鮮の名前は出さなかったのだ。

 

 ところが、「朝鮮時報」という朝鮮総連傘下で日本語で発行されている新聞が、北朝鮮批判が「某政党の機関紙にもつぎつぎと発表されている」「謀略の同調する行為」だとして、反駁を試みた。それに対して共産党は、それをを自分への非難だと受け止め、「『朝鮮時報』の日本共産党非難に反論する」という論文を公表することになる(12月8日)。

 

 こうしてようやく、共産党が北朝鮮を名指しで批判する時代がやってくることになるのである。共産党の一つの転機となった事件ということだ。

 

 それにしても、「朝鮮時報」も「某政党の機関紙」として共産党を名指しでは批判しなかったのになぜ、共産党の側はそれを自分に対する批判だと受け止め、名指しでの批判を開始したのか。それは、この論文の冒頭にも書かれているように、「ラングーンの爆弾テロ事件にかんして、今日までに堂々と公式見解を発表している政党は、日本では日本共産党だけ」だったからである。

 

 つまり、日本の他の政党は、このような重大な事件が起きてもなお、堂々と公式見解を発表することができなかったのである。いまでこそ、北朝鮮を批判するのは当たり前のような状況になっているが、当時はまだ、日本の政治状況はそういうものとは縁遠かったのである。共産党の朝鮮戦争認識も、そういう文脈で捉える必要はある。(続)