さて、北朝鮮の覇権主義、蛮行に対して共産党は早くから批判的な態度をとってきたが、朝鮮戦争に関する誤った記述は、94年の綱領改定まで続いた。そのことが、綱領での他の社会主義国への高い評価とあいまって、世界をどう捉えるべきかについての党員の思考に否定的な影響を与えたと思う。

 

 それを執筆中の本でも書きたいのだが、まず、共産党が現実政治の場では、北朝鮮に早くから批判的な態度をとってきたことを紹介しておきたい。他党と比べると、ずいぶん先駆的ではあった。

 

 早くから北朝鮮の路線の危険性を見抜き、批判していたことは、日本共産党が自己宣伝のために誇張しているわけではない。多少とも朝鮮半島問題に関心をもっている人々の間では、常識ともいえることになっている。

 

 日朝・日韓関係史の専門家で高崎宗司さん(津田塾大学教授)という方がいる。この方『検証 日朝交渉』という本(平凡社新書)の中に次のような記述がある。

 

 「68年1月、北朝鮮が武装ゲリラをソウルに派遣し大統領官邸を襲撃しようとしたことを契機にして、それまで朝鮮労働党(労働党)と交流してきた日本共産党は、労働党と対立関係に入った。平和革命路線をとる共産党は北朝鮮の冒険主義的武装闘争路線を強く批判した。すると、労働党は共産党にかわる日本の北朝鮮支持者を日本社会党に見出した。70年8月には成田知巳委員長を長とする訪朝団を招請し友好関係を樹立した。しかし、社会党はそうした北朝鮮の思惑を十分理解しなかった。そして、次第に北朝鮮の主張を無原則的に受け売りするようになっていった」

 

 同じく『北朝鮮報道 情報操作を見抜く』という本(光文社新書)がある。これを書かれたのは明治学院大学教授の川上和久さんで、自民党の機関紙などにも登場されることのある方だが、「離れる共産党、近づく社会党」という小見出しをつけ、次のように指摘している。

 

 「1968年1月に北朝鮮は、工作員をソウルに潜入させて朴大統領の暗殺を図る 『青瓦台事件』を起こし、ソ連や中国と距離を置く自主路線を歩み始め、金日成独裁体制を強化し始めた」、「こうした北朝鮮を、独裁国家と認識し始めた日本共産党は、次第に北朝鮮とは距離を置くようになる。1973年には、共産党の機関紙『赤旗』の平壌特派員を引き揚げ、1983年のラングーン事件で、完全な断交状態に至る」、「1970年代前後から関係が冷め始めた日本共産党に代わり、まさに北朝鮮との蜜月関係を築いていったのが、日本社会党だった」

 

 なお公明党も、1972年、竹入委員長を団長とする最初の代表団を送り、金日成主席に礼賛の言葉を連発しました。ですから、「蜜月関係」が社会党との間だけでなかったということである。(続)