さて、不破氏と上田氏は、どんな分派を形成したというのだろうか。まず、不破氏の自己批判の関連部分を紹介してみよう。

 

 「それが、分派主義につながる重大な性格をもっていたことは、この書が出版社の側で『戦後日本の分析』という〝双書〟企画の一つに位置づけられていたことによって、いっそう鮮明になってくる。『論争史』下巻の巻末には、編集部名で、『発刊にあたって』のあいさつがそえられ、そこでは、綱領問題を一つの主題とする第7回党大会が予定されていることにふれながら、『理論的にわが国での新しい革命の内容と形態を明らかにするとともに、これらをめぐる過去11年間のいっさいの論争を批判的に概括する目的でこの双書を刊行する』という趣旨がのべられていた。私自身は、この双書全体の企画の相談にはあずからなかったし、正直なところ、当時この『発刊』の言葉を注意して読んだ記憶はほとんどない。しかし、この『発刊にあたって』がいうとおり、『論争史』をふくむ出版が、党の綱領討議に党外から影響をあたえることを直接の目的として企画されたものだとすれば、それは、私がこの双書の企画の相談にあずかっていると否とを問わず、また予定されていた他の執筆者と面識があろうがなかろうが、事態の本質としては、『論争史』の出版を、明白に一種の分派主義の出版活動とするに十分なものであった。」

 

 そう、二人が著者になった『戦後革命論争史』とは、出版社の編集部が明らかにしているように、日本革命の展望を明らかにするとともに、その問題をめぐる戦後11年間の論争を批判指摘に総括するものであった。そのことについて不破氏は、目の前で行われている綱領討議に出版社が介入しようとしたものだと指摘しているのである。

 

 ここで言われている「予定されていた他の執筆者」については、少し解説が必要である。この本はもともと、上田氏と何人かの研究者が執筆者になることが予定されていて、何回も研究会を続けてきたのだが(不破氏は参加していない)、最終的な段階で他の執筆者が加わることができず、不破氏がごく一部を分担して執筆することになったという事情がある。

 

 ということで、共産党の綱領論争に外から介入しようとしたグループは、3つに区分される。著者である不破氏と上田氏、他の執筆者数名、出版社の編集部(これも複数)である。

 

 私は、自分で本を出すだけでなく、鈴木元氏の本の出版時期を私の本の刊行時期にあわせた行為をもって、党から「分派を形成した」と認定されたわけだが、不破氏と上田氏の場合、もっと大がかりである。著者だけでなく、著者のまわりに研究会に加わった執筆予定者がおり、出版社までかかわっていたのだから、私などよりよほど「分派」らしい。その程度のことを「分派」とする定義があったとしたのことであるが。

 

 それにしても、不破氏がそこでほのめかしているように、不破氏は、出版社がそういう意図をもって企画した本だということは知らなかった。上田氏と異なり、他の執筆予定者との研究会にも参加しておらず、最後に人が足りないからと言われて加わっただけである。

 

 それなのに、「事態の本質としては……分派」と認め、自己批判をしてそれを『前衛』に公表したのである。委員長になった直後にである。(続)