引用も多いし、慣れていない人には読みづらいかもしれない。ちょっと解説しておく。

 

 昨日の記事の最後で、上田氏の自己批判を引用している。

 

「先に引いた私の叙述(「はしがき」のこと――引用者)は、党員理論家個人が、党の決定や方針を『誤り』と感じ、みなしたとき、むしろ決定や方針を重んじないで、党内か党外かなどにこだわらず、公然と勇気をもって自説を発表すべきであるかのような含意をふくんでいる。」

 

 不破氏と上田氏が『戦後革命論争』を書いた当時、61年綱領に向かって全党討議がされていた。『団結と前進』という雑誌も刊行され、自分の意見をそこに発表することもできた(誰のものでも発表できたのかは知らない)。

 

 しかし不破氏と上田氏は、その『団結と前進』には寄稿することなく、党外の出版物(大月書店から)で綱領をどうすべきかと関連することを公表したのである。そうすることによって、党内論争に働きかけ、影響を与えようとしたのである。上田氏はそこを自己批判している。

 

「ところが私は、党員でありながら、『前衛』や『団結と前進』には、一篇も論文を提出することなく、いちはやく『戦後革命論争史』を書き上げ、党外で出版することによって、50年問題の総括と綱領問題の討議に参加する、より正確にいえば影響を与えようとする態度をとった56年11月15日の日付をもつ『はしがき』(『戦後革命論争史』に上田氏が寄せた文書――引用者)には、その意図が公然とのべられている。」

 

 これは、私が『シン・日本共産党宣言』を出した動機と重なるところがある。2015年の野党国民連合政府構想の提唱以来、共産党が自衛隊活用論を復権させ、安保条約第5条の発動、政権としての自衛隊合憲論に踏み切ってきたが、なお混迷が続いている現状に対して、「『シン・日本共産党宣言』を書き上げ、党外で出版することによって、安保・自衛隊問題の討議に参加する、より正確にいえば影響を与えようとする態度をとった」ということだ。

 

 当時の規約では、「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」となっていたので、それに反する態度をとったというのが、二人の自己批判の内容である。なお現在の規約は、このうち「党外にもちだしてはならない」という部分は削除されている。

 

 問題は、二人の自己批判はそこに止まることなく、自分たちが分派を形成したとしていることである。なぜ分派とみなされ、自己批判することになったのか。(続)