必要があって、久しぶりに「レーニン全集」を手に取った。ロシア共産党第10回大会でのレーニンの報告が載っている巻(第32巻)である。

 

 この大会は、ロシア共産党が分派を禁止した大会として知られる。全集にも「党の統一についてのロシア共産党第10回大会の決議原案」が載っているが、全集にあることからも分かるように、レーニンが起案したものだ。こう書いてある。

 

 「どんなものでも分派は有害であり、ゆるしえないということを、はっきりとさとる必要がある。分派というものは、たとえ個々のグループに属する者がどんなに党の統一をたもとうとのぞんでいるにせよ、実際には協力一致した活動をかならずよわめ、また政府党内にはいりこんでいる党の敵が、分裂をふかめ、それを反革命のために利用しようとますますはげしくくりかえして試みる結果をもたらすものである」

 

 「レーニン全集」は何回も読んだ。いま引用した部分にも赤鉛筆が入っている。懐かしいね。

 

 この大会決議は、共産党が(というか不破さんだが)何回も言及している。ロシアの党はボルシェビキとメンシェビキに別れていた時期があり、分派を容認していたわけだが、レーニンは最終的には分派を禁止したのだ、それが共産党の本来のあり方だという文脈で利用可能だからである。

 

 しかし、よく考えてみると(というか、考えないでもだが)、10回大会をもってそう断言するのは、かなりおかしいのだ。なぜかというと、この10回大会は、1921年に開かれたからである。

 

 つまりロシア革命後のことだ。ということは、ロシア革命は、分派を容認していた党が成し遂げたということなのである。

 

 分派の禁止を強調する人は、その理由として、革命を達成するためには不可欠だとか、階級闘争で勝利するためだとか、いろいろ言う。けれども、ロシアの経験から言えるのは、そういうことではないのである。だから、革命のために必要だというなら、ロシアではできたことが、なぜ日本ではできないかまで論じないと、説得力がないことになる。

 

 しかも、10回大会後も、ロシア共産党内には分派のようなものは存在した。だって、トロツキーとかブハーリンがいたわけだから。レーニンは、彼らが異論を外部で議論することを妨げはしなかった。そんなものは、レーニンが禁止しようとした分派ではなかったのである。

 

 レーニンが想定していた分派とは、特定の政綱をもった強い集まりというようなものだった。そういう観点で自民党を見ると、「自由民主党規律規約」というものがあって、「党の団結を阻害するような政治結社をつくる行為」は処分の対象になっている。共産党もこの程度には分派の定義を正確にすることが求められよう。