さて、最後に結論めいたことだが、二回に分ける。今回は「核抑止抜き」という考え方、最後は「敵基地攻撃」論。

 

 これまでの連載を書きながら思ったのは、安全保障のことを考えると、一般的な正解というものはあまりないことである。その国の置かれている地政学的な位置とか、その国が体験してきた歴史などを抜きに、国民が合意できる安全保障政策は生まれない。

 

 核抑止に頼らないというのは、いろいろな意味がある。

 

 連載で書いたように、米ソ冷戦時代は核抑止が効いていたかもしれないと思わせるものはあったが(これとて推測で成り立っているのだが)、冷戦崩壊後の現在、ウクライナ戦争を見ても、自由主義陣営を守るために核兵器を使うという覚悟がアメリカにあるとは思えない。使う場合も、日本に核を配備して使い、戦域を米本土にまで広げないというものになると思われる。

 

 核保有国は攻められないという固定観念も、9.11であっさりと覆された。もちろん、持っていたほうが攻められにくいという程度のことはあるかもしれないが、安心は相対化されたということである。

 

 一方で、核兵器使用のハードルはどんどん高まっていて、核保有国を縛っている。国際司法裁判所の勧告的意見では、一般的には使用は違法とされ、例外も自衛の極端な状況だけということになったので、他国を助けるための使用はほぼ難しかろう。

 

 しかも、ロシアの核兵器使用の威嚇に対して、平和運動が反対しているだけでなく、アメリカやNATO諸国は日本政府も含め、みんな抗議の声をあげている。ロシアに使うなと言うものを自分が使うことを前提に安全保障戦略を組み立てるのは、はなはだ合理性に欠ける。

 

 いちばん大事なのは、日本国民は、果たして自国を守るために相手国に核兵器を投下することに賛成できるのかということである。アメリカの核の傘に入るとはそういうことであるのに、日本の戦略がそういうものであると自覚している国民はほとんどいないと思う。そういう国民の議論が起きないように、非核三原則を国是とするのと一体にして(つまり日本はアメリカの核戦略とは一線を画すようなポーズをとることと引き替えにして)、実際には核抑止に依存する道を進んだので、国民の間で議論がされず、自覚も生まれなかったということである。

 

 だから、どこかの段階で、この議論を徹底的にやる必要があると感じる。ウクライナ戦争は核兵器が使われる危険を満天下に知らしめたので、いつまでも核抑止に頼るのかという議論がされやすい状況を生み出した。そして、もし世界のなかで「核抑止抜き」という考え方を選択する国があるとすれば、唯一の戦争被爆国日本だけであろう。そういう国民的な体験と安全保障政策は一体のものだと感じるのである。(続)