次回で最後にするけれど、それにしても安全保障を考えているといつも思うのは、安全保障には正解がないということである。そして、正解がないだけに、国民みずからが考え、判断し、そのリスクも自分が背負う覚悟が必要だということである。

 

 すでに書いたことだけれど、国土の周辺で専守防衛に徹するということになると、敵が国土に近づいてくるまで手を出さないわけだから、国土と国民が犠牲を負う可能性が飛躍的に高まる。だから、その道を選ぶなら、その種のリスクを覚悟することが求められる。

 

 一方、核抑止力をはじめアメリカに頼るというなら、強大なアメリカを敵に回す覚悟を持つ国はないだろうという安心感は得られるかもしれない。しかし一方で、もしアメリカが助けてくれなかったらどうなるのだという不安はつきまとうし、不安であるが故に、何でもアメリカの言うことに従わないといけないという強迫観念が強まり、国家としての主権や矜持まで放棄することにもなる。

 

 9条に徹して軍事力を放棄するという選択肢は、その信念を持っている人にとってはそれしかないというものであろうが、その信念を有しない人にとっては最大のリスクを背負うことになる。国民多数の支持に依拠して政権をめざす政党が選べるものではない。

 

 だから結局は、そういういろいろな選択肢を並べて、リスクとメリットを国民に提示し、「どれを選ぶのだ」と迫っていき、最終的に国民が選ぶという道をとらなければならない。しかし、戦後の日本では、保守派がアメリカに頼るという道を無条件で選び、革新派は憲法9条の非武装を好み、どちらにもリスクがあるという認識がなかったため、議論が交わることがなかった。

 

 唯一、90年代初頭までの共産党が「中立自衛」政策を提示し、国民のいのちにも責任を負う革新派の道を進んだ。けれども、当面は護憲で、将来は改憲というのは、理論的には成り立っても、あまりに難しすぎて、国民多数に浸透するようなことはなかった。

 

 要するに、あまり思考を働かせないで済む簡便な政策が、国民の支持を得てきたということでもあろう。とはいえ、複雑だけれど理解してもらえるというものでないと、本当のところ、いざという時には役に立たないようにも思う。ということで、次回が最終回。(続)