次回から、これまで論じたことを材料にして、私なりの「避戦の安全保障論」のまとめに入っていく。その前に、「敵基地攻撃論」に関して、読者のみんさんに問いたい。

 

 問いは一つ。「外交努力むなしく戦争が開始され、現在のウクライナが体験しているように、敵国の基地から発射されるミサイルの攻撃が日本に対してくり返されている。あなたが政党の党首なら、それにどう対処しようとするか」。

 

 答えはいくつかに分かれるだろう。どれにもバリエーションはあるだろうけれど。もちろん、他の選択肢でも構わない。

 

 一つ。アメリカの核抑止力に頼る。「そんなことを続けているとアメリカが核兵器をミサイル基地に投下するぞ」と脅すことによって、ミサイル攻撃を止めさせようとする道である。

 

 二つ。核抑止力にまでは頼らない。アメリカの軍事力を持ってすれば、ミサイル基地を木っ端微塵に叩くことぐらいできるだろうから、そこには頼るという道である。

 

 三つ。アメリカには頼らず自分で敵基地を叩く。そもそもアメリカが本土への報復をされてでも敵基地攻撃をしてくれるか分からないし、日米安保は廃棄が基本であり、自国の敵基地攻撃能力を高めることで対処すべきだ。

 

 四つ。他に国民の命を守れないなら、敵基地攻撃は全否定しないが、保有しないことを外交上の強みに変えるように努力する。しかし、すでにミサイル攻撃が開始され、止まない状況ならば、他国から必要な武器を購入することも辞さない。

 

 五つ。敵基地は叩かず、外交努力に徹する。外交努力が実らなかったので戦争になったという前提だが、それでもその道を進み続ける。

 

 これまで政府が敵基地攻撃能力の保有に踏み切らなかったのは、アメリカがそれを担うのが当然の前提だったからだ。岸田政権が踏み切るというなら、その前提が崩れたのか維持されているのかを明らかにし、その上で国民に選択を呼びかけるべきものである。

 

 また、敵基地攻撃と憲法との関係にしても、これまでの政府の解釈は、外交努力とか日米安保などの手段があるのにそれに踏み切れば憲法上の問題が生じるというものであって、外交努力むなしく開戦になり、アメリカも助けてくれない場合、敵基地攻撃を違憲だとしたものではない。私も、日本国憲法が、国民の命が失われても仕方がないという立場に立っているとは思わない。

 

 さらに、個人としての考え方なら、自由に何でも言えると思う。5つ目の道を選ぶことは、外交努力が実るまでの間はミサイルが襲ってくることであり、国民の命も犠牲になるわけだが、いわゆる「座して死を待つのが憲法9条の立場」と腹を括って対処するということである。それくらいの覚悟があるほうが、外交努力にも力は入るかもしれない。

 

 しかし、政党としてどうかと問われると、そう簡単ではなかろう。ミサイルが国民を襲っているまさにその時に、ミサイル基地を叩くしか国民の命を守れない時に、基地を攻撃してはいけないということは、国民の命を犠牲にしていいと言っているのと同じだから。そういう政党はあってもいいけれど、決して多数派にはなれないだろう。

 

 などなど。いろいろな要素を加味して、是非、答えをだしてほしい。