敵基地攻撃というだけで、それは先制攻撃だ侵略だと批判する人がいるので、そこを是正しておきたい。敵基地攻撃には、先制攻撃で行われるものもあれば、専守防衛の一環としてやられるものもある。それを区別しないで敵基地攻撃を批判しても、「日本を守るために必要なことを批判するとは、国土が破壊され国民が犠牲になってもいいということだな」と、弱みをつくってしまうことになってしまう。

 

 そもそも、先制攻撃と侵略を防衛政策の柱に据えているような国はない。国連憲章と国際法に反することを堂々と政策として公言する国家など、国際社会では存立不可能である。

 

 いま日本で問題になっている敵基地攻撃も、岸田内閣としては、あくまで専守防衛の範囲内でのこととして論じている。その敵基地を攻撃しないかぎり、日本への侵略が止まない場合の反撃としてである。その相手の論点をずらして、「先制攻撃だ」と反撃しているかぎり、日本への侵略を容認する議論と捉えられてしまうことになる。

 

 ウクライナ戦争に即して考えても、ウクライナ軍は基本的に専守防衛で頑張っているが、時として公海上のロシアの軍艦を撃沈したり、ロシア領内のミサイル基地に反撃を加えることがある。だからといって、ウクライナを侵略者とは呼ばないのであって、もっと現実に即した捉え方が必要だと考える。

 

 なお、相手の攻撃をどの時点で侵略と判断すれば、こちらの反撃が防衛的なものだと判断できるのかという問題がある。国連憲章では、「武力攻撃が発生した場合には」自衛権が発動できると書かれているので(第51条)、「攻撃が発生した」場合だろう、「発生した」のだから、事実として日本が被害を受けている必要があるという解釈がある。一方、この部分の英語は過去形(occured)ではなく現在完了形(has occured)なので、必ずしも被害が出ている必要はなく、「攻撃に着手した時点」でいいのだなどの国会答弁が無数に行われてきた。

 

 被害が出てからということは、国民に犠牲が生じているとういことである。国会で議論する与党の政治家は、口が裂けても「国民に犠牲が生じるまでは反撃できない」と言いにくい。だから、できるだけさかのぼって反撃が可能なような解釈に行き着くのであるが、現場ではそんなあいまいな概念は通用しない。

 

 そこで自衛官は悩むのだ。いろいろなアプローチが生まれることになるが、ここは元空将補の林吉永さんに登場していただこう。『自衛官の使命と苦悩』(かもがわ出版)でこう書かれている。

 

 「私が百里基地第七航空団司令拝命時、パイロットたちに語っていたのは、『引き金を引くな』でした。『正当性が確立されて初めて引き金を引ける。その正当性を確立するために、まず犠牲になることを考えろ。殺される直前に脱出できればそれがベストだ。報復する正当性のエビデンスをつくるのが君たちの最前線のミッションだ』ということでした。先に撃たれて脱出して浴びる批判、恥辱が日本の正義の保証になるのであれば、空自のパイロットの忍耐は『真のヒーロー』たり得ると確信しています」

 

 自衛官も、先制攻撃しないよう、涙ぐましい努力をしているのである。自衛隊に攻撃的な武器を与えれば侵略するなどということは、言ってほしくない。(続)