さて、抑止力とは、おおまかに言えば、二つの要素から成り立っていることを理解してもらえただろうか。1つは、自国もしくは同盟国が侵略された場合、それを阻止し、ある場合は侵略国に壊滅的な打撃を与えるだけの軍事力を擁することである。もう1つは、それだけの打撃を与えることを侵略国に事前に伝えることと、侵略国もそれを理解するというコミュニケーションが成立していることである。

 

 冷戦時代、少なくとも核保有国の間では、抑止力は成り立っていたと考えられている。1つ目の能力の問題は、核保有国だというだけでクリアーされる。2つ目のコミュニケーションの問題でも、アメリカもソ連も、核ミサイルによって相手国本土を壊滅する態勢にあることを隠さずに伝えていたし、そうなれば自国が滅びることをお互いが理解できていた。だからこそ、不測の事態が戦争に発展しないよう、政府トップの間でのホットラインもあったし、軍同士の緊密な連絡体制も構築されていた。

 

 同盟国も抑止力を信頼することができた。米ソは資本主義が勝つか社会主義が勝つかの死活の闘争をくり広げていたわけで、お互いの陣営の一角でも失うことはその闘争での敗北を意味していたから、同盟国を失わないためにいざという時には核兵器の使用をも辞さないと考えられていたからである。

 

 要するに、ただ相手を上回る軍事力で圧倒するというのは、抑止力とは縁遠いということである。コミュニケーションの側面を欠いて抑止力、安全保障を考えることはできないのだ。

 

 冷戦の終了は、そこを大きく転換させた。直後から開始された日米安保再定義の動きは、日米同盟の意義を日本防衛からアジアの安定へと定義し直すものであったが、要するに日本の側からすると、アメリカがいざという時に助けてくれないという恐怖が生まれたことへの対応としての側面が強い。

 

 よく知られているように、当時、それならばアメリカだけに頼るのではなく、多角的な安全保障体制を選択肢にしようという動きも出てきた(1994年設置に細川内閣が設置した樋口懇談会)。しかしこれはアメリカが反対したし、日本でも本格的な動きにはならなかった。

 

 そこで生まれたのが安保再定義である。日本が自国防衛だけに特化するのではなく、アジアの安定のためにアメリカに協力するから、いざという時にはお願いね、という路線が強まったのである。

 

 その後の安倍政権による集団的自衛権の容認と新安保法制、岸田政権の敵基地攻撃などは、すべてこの延長線上にある。つまり、アメリカが日本防衛の義務を果たさないことが想定されるが、それを回避するためにどうするか、日本がどこまで踏み込めばアメリカが助けてくれるのかが、自民党政権の一貫した問題意識となっているわけである。(続)