これまで「抑止」をカテゴライズして論じてきたが、次にその「抑止」を機能面から眺めてみたい。といっても難しい話ではない。

 

 先日の「赤旗」の敵基地攻撃問題の特集のなかで「抑止」批判が載っていた。そこでは、抑止に対して相手国に恐怖を与えるものという位置づけを与え、だから少しも許してはならないものだという書き方がされていた。

 

 確かに抑止と恐怖は一体のものである。この連載でもすでに論じたように、抑止概念は核兵器による大量報復戦略によって誕生したのであり、相手に壊滅的な打撃を与えることを想定したものだ。相手が恐怖を感じてくれるから、きっと侵略には手を出さないだろうという期待が前提にある。武力の行使はしないが、威嚇はするのである。

 

 その際、抑止にdeterという用語が与えられたのも、それを裏付ける。terはterrorism(テロ)と語源を同じくするもので、もともとはフランス大革命時の恐怖政治に端を発する。日本語で「抑止」と言ってもおどろおどろしく感じなのだが、フランスやアメリカでは本質に近い響きがするのだと思う。

 

 国連憲章では、武力の行使だけでなく武力による威嚇も禁止されている。それなのに武力による威嚇を安全保障戦略の中心におくのはおかしいというのが、平和主義者の言葉となるのだろう。

 

 しかし、その同じ国連憲章が、自衛の場合の武力の行使と威嚇は容認している。抑止戦略を侵略された場合の自衛に限定して採用するなら、威嚇は容認されるのではないか。だって、侵略のために日本の領域に軍隊が近づいたら、その軍隊には打撃を与えるぞという意思を示し、そのための装備や体制も整備し、訓練も行うのである。そういうこともしてはいけないということになると、自衛隊は基地のなかでじっとしている日々を送るしかなくなってしまう。

 

 抑止とは、これまでも述べたように、自衛の場合であっても戦争を回避したいという願いが根底にある。だから、威嚇によって相手が侵略するのを阻止しようとするわけだ。そういう戦略のマイナスも大きいので、無条件に肯定するものではないが、本当にそれが機能して侵略を防げるなら、「侵略されたら必ず自衛権を行使する」という戦略よりも血を流すリスクは減ることになる。

 

 問題は、抑止をそういう軍事面だけで捉える傾向が強いことだ。抑止のもう1つの側面であるコミュニケーションにこそ注目すべきである。(続)