核抑止は、安全保障の専門家の間では当然の見地と思われているが(その問題点は連載のなかで触れていく)、それはとりあえず脇において、では核抑止を認めないなら、通常兵器の抑止は認めるのかという議論になっていく。通常兵器の抑止といっても、いろいろな考え方があって、単純ではない。

 

 まず、通常兵器による拡大抑止は認めるのか(軍事同盟に依存するが、実際に使う兵器は通常兵器に止める)、軍事同盟に頼らず単独の通常抑止を選択する(いわゆる自主防衛である)と割り切るのかという問題がある。前者の場合、同盟の相手国であるアメリカが、通常兵器だけでは抑止にならないとして相手にしてくれない可能性があるし、後者の場合、本当に日本だけで守れるのかという不安がつきまとう。

 

 さらに大きな問題がある。それが敵基地攻撃を認めるか認めないかである。

 

 核抑止の場合、敵基地攻撃をするかしないかは、あまり問題にならない。それは、核兵器を使用するということは、相手国の基地を一挙に壊滅させることが前提になっているからで(政治や産業の集積地も叩くだろうが)、敵基地は最重要の攻撃対象なのである。

 

 一方、通常兵器による敵基地攻撃を考えると、ハードルの高さがつきまとってくる。たとえば、敵のミサイル基地を破壊するとなると、核兵器を投下すればミサイル関連の施設を一網打尽にするし、地下にミサイルが隠されていたとしても、関連の施設や要員が重大なダメージを受けるので、態勢を立て直すのは容易ではない。しかし、通常兵器を使う場合、1つひとつのミサイル、1つひとつの施設をピンポイントで狙うことが求められるので、出撃する爆撃機その他、尋常でない回数が求められるし、攻撃しているうちに相手が態勢を立て直して反撃してくることさえ予想される。

 

 岸田内閣になって敵基地攻撃が急浮上しているのは、もはやアメリカが核兵器で相手の敵基地を叩くという想定ができなくなっているからである。そういう不安は安倍さんがもっとも敏感に感じていて、だから日本が血を流してでもアメリカを守る姿勢を明確にすることでアメリカに日本を振り向いてもらいたいと考え、集団的自衛権の容認に踏み込んでいった。岸田内閣はそれを継承しているわけである。

 

 日本はこの間、ずっとアメリカの核抑止に頼ってきたから、日本自身が敵基地攻撃に踏み切ることへの評判は良くない。というか、なぜそんなことを考えるのだ、議論するのだという空気が強い。

 

 しかし、安全保障の世界では、敵基地攻撃なしの安全保障は現実味のないものと考えられている。なぜなら、相手国のミサイルや軍用機、艦船の基地を叩かない場合、そのミサイルや軍用機や艦船を叩くのは日本の領土、領海、領空に近づいてからということになるが、それってミサイルなどのいくつかは日本の国土、国民に被害を与えることが前提になっているからである。だから、専守防衛を選ぶにしても、敵基地攻撃をそれに含めるかどうかは、専守防衛論者のなかでも意見が分かれる。

 

 いずれにせよ、通常兵器による敵基地攻撃は、核兵器によるものとは段違いに効果が薄い。専守防衛というのは、国民の犠牲の上に成り立つ戦略なのである。これを「本土決戦」型と呼ぶ人がいて、さんざん敵国の領土をふみにじった末の第二次大戦末期の日本を想像させるので、適切なたとえではないが、内容は似たようなものである。専守防衛を選び、かつ敵基地攻撃はしないという道を選ぶ場合、多大な犠牲を甘受するだけの覚悟が必要なのだ。(続)