選挙が告示されたので、予定通り除名問題はとりあげず、本日からこのテーマで連載を開始する。徴用工問題もまだ出だししか書いていないので、どこかで再開するが、まず安全保障論だ。選挙が終わったゴールデンウィークあたりから、また華々しく活躍する予定なので、乞うご期待である。

 

 この問題では、昨年、私が事務局長を務める「自衛隊を活かす会」が、タイトルの読み方としては同じ『非戦の安全保障論』(集英社新書)を刊行した。著者は柳澤協二氏(「会」代表)など専門家4人だが、私も編集や構成を担当したので印税は頂いていて、最近増刷にもなるなど好評である。「自衛隊を活かす会」を8年間続けてきて、その集大成とも言えるものなので、関心があったら手にとってほしい。私がこの連載のタイトルに「避戦の安全保障論」と付けたのは、この本を私なりに発展させたいと思っているからである。

 

 さて、私が『シン・日本共産党宣言』で「核抑止抜きの専守防衛」を打ち出したことで、「抑止」「抑止力」の問題が共産党周辺で議論された。「松竹は抑止力を認めてしまっている。問題外だ」などの議論である。

 

 しかし、こうやって抑止力そのものを批判する論者というのは、そもそも抑止力とは何かを知らないで議論していると思う。抑止力=軍事力と捉え、軍事力に頼る安全保障そのものを否定しているか、あるいは抑止力を軍事力のなかでも特別に強大なものとして捉え、軍事力を否定はしないが、抑止力までは認められないと思っているか、どちらかだろう。けれども、そういう浅い理解では、安全保障を論じることはできない。

 

 誤解を恐れずに言えば、第二次大戦後に抑止力理論が誕生したことには、安全保障の世界における前向きな発展がある。そこを理解しないと、抑止力をめぐる議論は空疎なものに陥ってしまう。

 

 何かと言うと、それ以前の世界では、軍隊の役割は戦争をして勝利することにおかれていた。そのためにどんな軍隊をつくるのかというのが、安全保障における眼目のようなものであった。

 

 「抑止」はその根本を転換した。抑止というのは、その言葉の通り、軍隊の役割を戦争することから、相手の軍事行動をどうやって「抑え止めるか」に転換したものであった。実際にそんなことが可能なのか、そんなことを言っても実際にアメリカはたびたい戦争しているではないかという議論も可能だし、その分析は不可欠であるが、理論の目的として抑止とはそういうものなのだ。

 

 もし、それ以前の世界のように、「戦争は外交の継続だ」という理論がまかり通っていたら、「戦争の20世紀」は21世紀になっても終わらず、惨憺たる世界が目の前に広がっていたと思う。(続)