現在、共産党にかかわる本を同時進行で5冊ほど抱えている。うち1冊は自分が書いているのだけれど、いずれも11月末から来年1月までに刊行されるであろう(弊社からは3冊)。こんなことは出版社に就職して初めてのことだ。それだけ共産党が注目されている証というか、無理矢理にでも注目してもらおうという、私の願いの発露でもある。

 

 その中の1冊に宮本百合子の葬儀にまつわる話が出て来る。百合子の葬儀は1951年1月25日、文京区林町の自宅で行われたのだが、なかなか盛大だったようで、私が若い頃に読んだ「戦後の文化政策をめぐる党指導上の問題について」という論文には、次のような記述がある。

 

「各界から1300人もの人が参加して彼女の死を悼んだ。国の内外から寄せられた団体や個人の弔辞、弔電は数えきれないほどであった」

 

 続いて5月23日、東京・神田共立講堂では「宮本百合子祭」が行われた。これには3500人が参加したという。

 

 ところで、51年の前半というのは、共産党にとって微妙な時期だ。いわゆる「五十年問題」の真っ最中なのである。

 

 「五十年問題」って、私の生まれる前の問題だし(父がこれをきっかけに離党したというのは私が大学に入学したときに教えられた)、若い人はもちろん、私の上の世代だって正確に理解している人は少ないだろうと思う。

 

 最近、めずらしく「赤旗」で大論文が出ているなと思ったら、「五十年問題」に関わって分派を許してはならないことが強調されていて、だからこの問題というのは、分派が悪質なことをやった問題だと理解している人も少なくないだろうし、それが間違っているわけではない。しかし、そんな単純な問題でもない。

 

 例えば先ほどの「宮本百合子祭」。当時の分裂していた共産党の多数派であった「臨時中央指導部」は、全党員に対してボイコットを呼びかけた。その影響下にあった雑誌「人民文学」は3月号で「宮本百合子について」という特集を行ったのだが、次のような記述まで見られる。

 

「彼女は階級敵であり帝国主義の血まみれの手に恐れげもなくつながった」「百合子は観念的には共産主義者となって労働者階級の立場に立つように見せかけながら、実際にはブルジョア文壇に寄食しプチブル的生活を維持しつづけることに成功した才能あるペテン師であった」

 

 すごいね。同じ共産党の仲間のはずなのに、こんな言い方ができるんだ。当時、宮本顕治に対しても、「分派だ」「スパイだ」とする決議を挙げる運動が、広範な共産党の機関でやられていたという。

 

 つまり、当時の共産党のなかでは、「臨時中央指導部」こそが本流であって、宮本顕治や百合子は「分派」扱いされていたということである。それを宮本らが乗り越えて主流派になって、ようやく、以前の主流派は多数派だったかもしれないが、規約を踏みにじって中央委員会を解散したのだから、お前たちこそ分派だろうと位置づけられるようになり、「多数派分派」みたいな言葉も生まれていくという経過を辿るのである。

 

 主流派が少数派を「分派」認定するのは簡単だということでもある。しかし、その主流派がやがては少数派に転落する可能性も存在するということでもある。