公明党の代表に山口那津男さんの8選が決まった。共産党の志位さんが党首を20年以上務めていて「長い」と言われるが、山口さんも13年であり、十分に長いという点では共通している。

 

 もう一つ共通しているのは、党首選挙で対立候補があらわれず、常識的な意味での選挙にはならなかったことである。ふつうに「選挙」と言えば、候補者の間に政策的な争点があって、どちらかの政策を選ぶために投票することを意味するが、どちらの党も対立候補がないので、共産党の場合は信任投票になり、公明党の場合は無投票になる。共産党の場合、もし不信任が信任を上回れば選ばれることはないので、どちらかと言えば共産党のやり方のほうが「民主的」と言えるのかもしれない。

 

 さて、朝日新聞は共産党の創立100周年に当たる7月15日付の社説で、共産党に党首公選を勧めて、共産党からきびしく批判された(「日本社会の根本的変革をめざす革命政党にふさわしい幹部政策とは何か—一部の批判にこたえる」8.23論文)。同じく党首公選をしていない公明党に朝日新聞はどんな態度をとるのかを注目していたが、数日前の社説で、こう主張していた。

 

 「1964年の結党以来、公明党の代表選に複数が立ったことはなく、今回も無投票だった。支持母体の創価学会も含めた、水面下の調整で候補者が一本化される過程は外からうかがえず、公党として透明性を欠く。選挙戦で政見や政策を競い合うことが、党が掲げる『団結第一』に反するとは思えない。」

 

 共産党にも公明党にもちゃんと同じ主張をしていたのだね。当たり前かもしれないけれど。

 

 でも、そうか、公明党が複数の候補で争わない理由は、「団結第一」だからなのか。そこも共産党が「派閥・分派がつくられて党が分裂」(8.23論文)しないようにするために選挙をしないのと似ているのかもしれない。

 

 違ったことは、朝日の社説を読んだ人から、共産党のものはそれなりに反響があったけれど、公明党のものはすでに忘れ去られているような印象があることだ。何が違うのだろう。

 

 おそらく、公明党にそんなことを言っても、そして党首公選が実現しても、とくに日本の政治が変わることがないという冷静な判断が国民には存在すると思う。一方、共産党がそれを実現すれば、共産党が変わるだけでなく、そのことによって野党の連携が深まり、日本の政治が少しはマシになるのではないかという、そんな期待が国民のなかにわずかではあっても存在するのではなかろうか。共産党だけの問題ではないので、国民の一部も期待するということだ。

 

 まあ、共産党にそんな決断はできないという、リアルな視線も多いけどね。でも、その違いは大事にすべきなのではないかと感じる。