「生産手段の社会化」って、憲法に堂々と書き込むようなことではない。だって、それって目標というより手段だからだ。国民の自由権、社会権を徹底的に実現するのが目標で、そのために必要な手段の一つとして、生産手段の社会化が課題として浮上するなら、それに取り組めばいいというだけのことである。これを目標にして憲法の前文などに書き込むようになってしまっては、連載のどこかで書いたと思うけれど、それに熱中して国民を苦しめたスターリンの再来である。

 

 とはいえ、日本国憲法の人権規定があまりに立派なために、生産手段の社会化が必要になった局面で、憲法の人権規定を理由にその手段がとれないのはマズい。憲法第29条は、「財産権は、これを侵してはならない」と明確に規定しているけれど、憲法を変えないと生産手段の社会化には手を付けられないとなれば、「憲政党」など論外ということになりかねない。

 

 しかし心配はご無用である。日本国憲法は、その時に必要な規定も置いているのだ。29条の全文は次の通りである。

 

 「第29条 財産権は、これを侵してはならない。

  2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

  3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」

 

 たとえ資本家の所有物である生産手段といえども、「財産権は、これを侵してはならない」のが基本である。そうやすやすと生産手段の社会化はできない。

 

 しかし、3にあるように、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」のだ。生産手段の社会化も、公共のために必要な場合、正当な補償があれば例外的に可能なのだ。

 

 この29条は、戦後史を見ると、米軍基地などのために土地を収用することの根拠規定となってきたため、憲法学者にも市民運動家にも評判の悪い規定である。しかし、もっと長いスパンで歴史的に見れば、私有財産の絶対化こそ資本主義社会の原理だったのであり、そこに制約を加えることは進歩的な面があるのだ。

 

 いずれにせよ、憲法の人権規定が全面的に徹底されるような世の中が実現するとして、「いや、この程度ではダメだ。どうしても共産主義に向かわなければ」ということはあり得ないのではないか。共産党が資本主義の枠内での改革をしている間も、社会主義・共産主義に向かう場合も、それを達成したあとも、日本の憲法は変える必要はない(象徴天皇制を国民がどう判断するか分からないが)。

 

 それならば、共産党の党名も、共産党が根拠とする理論も、共産党がめざすべき社会像も、それにあわせて変革していくことも選択肢なのではないか。宮本顕治氏が昔、「文化評論」の自分のインタビューに、「日本の風土にあった社会主義への道」というタイトルを付けていたのを思い出す。あの時は、「日本の社会主義では蕎麦の出前もあるのだ」という箇所に妙に納得したが、その日本の風土が憲法だということなら、理論的にも納得できるように思える。

 

 「憲政党」、どうでしょ。これなら、中国をはじめ現存するどうしようもない共産党との差別化は可能だ。「共同党」とか「共生党」だと、「ああ、共産の言い換えね」といつまでも思われるが、「憲政党」なら理想も現実も表現しているし、何よりも共産党の実態にあっているように思える。国民への説明もしやすいし、共産主義にこだわる人も「これが共産主義の理想の日本的表現」だとなれば納得できる。「憲政党(旧共産)」という言い方も次第に終わっていくだろう。

 

 党首選挙が実施され、私が立候補できるような制度になるなら、この連載で書いたことを訴えよう。別にこれで行くということではなく、少なくとも党名をどうするかの党内議論を公開で興して、共産党の理想と現実にめざしているところを、正確に国民に通用する言葉で理解してもらうことが大事なのではないか。

 

 党首公選ネタは、しばらく封印。年内は深く潜行して、来年1月に再開することになるでしょう。(了)