マルクスは社会主義を構想したけれど、その目標を現在の言葉に置き換えると、自由権と社会権をともに重視するということである。それが前回までの結論。

 

 さて、先日、「この連載のテーマにかかわって、もっとも大事なこと、もっとも言いたいことが残っている」と書いた。それは何かというと、自由権と社会権をともに重視した憲法というのは、この日本で実現しているということである。日本の憲法がこの点で世界でもっとも先進的なことは、憲法学者の間では常識に属することだ。

 

 ということは、この日本では、社会主義の目標は、すでに憲法の規定として実現しているということにならないか(9条も含めて)。憲法の人権規定を実現していけば少しずつ社会主義に近づき、全面的に実現すれば共産主義が達成されるということでもある。これは多くの問題を考えさせてくれる。

 

 一つ。「共産党」を変えない理由として、そこには理想が込められていると言われることがあるが、いくら共産主義が理想なのだと言っても、世論からは理解されない。しかし、日本国憲法にその理想が描かれているなら、そう説明すれば理解が広がるのではないか。そしてそれならば、共産党という党名ではなくても、憲法を政治に生かすという意味で「憲政党」のような党名にすることだって選択肢である。日本のような憲法のある国だから通用するやり方である。コミュニズムの訳語という視点で接近すると「共同」「共生」「共存」などしかできこないが、コミュニズムがめざす目標という視点で接近すると、こういう選択肢もあるということだ。

 

 二つ。これは党名問題というだけでなく、共産主義とは何かという問題にも通じる。共産党の規約は、「党は、科学的社会主義を理論的な基礎とする」(第2条)としており、マルクスは別格扱いである。しかし、マルクスが死んでからも、世界でさまざまな実践が積み重ねられ、豊かな理論が生まれ、そのすべての成果が日本国憲法に結実しているとなれば、共産党の理論的基礎を科学的社会主義という言葉だけで表現する必要はない。科学的社会主義が出発点になったが、その後も現在の日本国憲法につながるさまざまな理論、実践も党の基礎になっていると考えればいいのではないか(科学的社会主義がそもそもそういう立場だし)。マルクスだけが特別ということでは世論の理解は得られないが、マルクスの考えをそうやって豊かに捉えているのだと訴えれば、納得してもらえるかもしれない。

 

 三つ。ということは、マルクスの名前さえ知らないでも、憲法の人権規定を徹底するために頑張っている人は、本人は自覚していなくても「共産主義者」だと言える。不破さんが、『激動の世界はどこへ向かうか』という本で、共産党が存在しなくても世界は社会主義になると述べているが、少なくともこの憲法が存在する日本に限っては、その通りなのかもしれない。

 

 それに、もしマルクスが現在に生きていて、「理想の憲法を起草してください」と依頼されたら、日本国憲法を素材にして書くのではないか。9条をどう処理するかは分からないけれど。 

 

 こう書いてもピンと来ない人もいるだろう。「生産手段の社会化」こそが社会主義だと信じている方である。明日、連載の最後にそのことを書く。(続)