歴史の皮肉の話である。

 

 マルクスがあんなに1848年革命でがんばったのに、ドイツでは民主共和制の憲法は実現せず、国王の絶大な権力が維持される。国王は、納税拒否をあおった罪でマルクスを起訴し、法廷に立たせた(無罪を勝ち取ったけれど)。そして国王は、憲法制定議会で審議されていた草案を大幅に修正し、1850年に憲法を公布する。これがプロイセン憲法であり、日本がまねして大日本帝国憲法に結実したことで有名である。絶対主義の憲法だったのだ。

 

 だが、このプロイセン憲法は明治憲法と異なり、人権をあつかった部分では、革命時の草案を基礎にしたため、それなりに進歩的な側面を持っていた。社会の現実はそうでなかったのに、大いに矛盾した憲法だったのだ。 

 

 「紙の上に現れた『プロイセン人の権利』から、現実に示されている哀しい姿に目を転じるならば、……理想と現実、理論と実践のあいだの奇妙な矛盾についての完全な理解が得られるであろう」(全集第12巻585ページ)

 

 この矛盾のなかから、そして資本主義の発達も背景にして、ブルジョアジーが議会に進出してくるようになる。そして、国王が軍事費の増大を企んだのを議会が拒否して解散したが、新しい議会はもっと軍事費拡大反対派が占めるようになり、国王はビスマルクを首相に任命する。ビスマルクは議会を無視して軍事費を増やし、周辺国を侵略した。

 

 その結果、ブルジョアジーとの間で数年にわたる「プロイセン憲法紛争」が起きるのである。マルクスは、この時、少し大人になっていて、ブルジョアジーは民主共和制を求めていなかったけれど、「ブルジョアジーを支持することは、労働者の利益になる」(全集第16巻74ページ)と述べた。

 

 この紛争はビスマルクの勝利に終わるのだが、別の成果を生んだ。71年、普通選挙権(男子のみ)を規定した新しい憲法ができるのである。そして、新しい選挙制度を通じて、ドイツでは労働者党の代表が議会に進出するようになる。社会主義者取締法(治安維持法のようなもの)で弾圧されるのだが、それを跳ね返して議員がどんどん増えていく。全投票者の4分の1が労働者党に投票するまでになった。

 

 この闘いは二つのことに結実した。一つは、議会を通じた革命という、マルクスらの革命論の発展に貢献した。もう一つは、マルクス、エンゲルスの死後、時代が彼らの予測を超えて進んでしまったことである。第一次大戦後のドイツでワイマール憲法がつくられ、社会権がはじめて包括的に規定されたのだ。マルクスが社会主義にならないと無理と判断した労働権、社会権を規定した憲法が、資本主義のもとでつくられたのである。歴史の皮肉である。

 

 さて、これがどういうふうにして、日本共産党の党名の話につながっていくのか。そろそろ結論めいたところにはいっていこう。(続)