「コミューン」という原語で表される内容をそのまま党名にもって来ようとすると、選択肢は限られる。「共同党」とか「共同社会党」とかだ。だけど、そういう用語を普段に使うことがないので、どうもしっくりこない。時間が経てば慣れていくものかもしれないけれど。それよりも「共生」という言葉が最近定着しているので、そのあたりでもいいかもと思うことがある。

 

 ただ、昨日の終わりに書いたように、マルクスの考えたことが、この資本主義社会で定着していて、われわれの用語になっていることもあるのではないか。そういう側面から考えてみよう。

 

 社会主義って、どこに特徴があるのだろうか。「資本主義とはここが違う」というのは、いったいどこだろうか。共産党綱領を見てみよう。

 

 そこには、「社会主義的変革の中心は」として、「主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と書かれている。「中心」はそこなのだ。「資本主義とはここが違う」と言える内容がある。だから、生「産」手段の「共」有だから「共産党」でいいのだと言う人もいよう。

 

 しかし、そんなことを党名に掲げて、国民の支持が得られるわけがない。そもそも共産党にとって社会主義は当面の目標ではないのだ。国民が支持しないという現実もあって社会主義を当面の目標としないのに、その支持されない名前を党名に刻んでいるというところが、決定的な矛盾である。いくら立派な社会だ、だから党名にしているのだと訴えても、それで共産党に対するイメージを変える国民はいない。

 

 それに、生産手段の社会化って、あくまで「手段」である。国民の暮らしを向上させるため、生産手段の社会化が必要な段階がくるときがあるというものであって、社会化が目標ではないのだ。

 

 それを目標にしてしまったのがスターリンである。いやがる農民を強制して集団農場を全国に広げ、企業は数人規模のものまで国有化し、「これで社会化が完了した」ことを理由に1930年代、「ソ連は発達した社会主義になった」と宣言した。

 

 生産手段の社会化を目標にしてしまうと、その目標を達成することが至上命題になって、本来の目標である国民の暮らしの向上が脇に追いやられるわけだ。そんな考え方を党名に入れてしまっては、ソ連の失敗を繰り返すことになりかねない。

 

 国民が、資本主義に続く社会、資本主義に替わる社会として、もし共感を寄せることがあるとすると、そういう「手段」ではなく、あくまで国民にどんな「分配」があるのかということだろう。誰かが「分配を基準にしてはいけない」と述べたが、理論的にどうかは別にして、国民目線に立つと、社会主義になればこんな分配があるということだ大事なのである。

 

 さて、それは資本主義の用語になっているだろうか。(続)