共産主義というのは、いうまでもなくコミュニズムの日本語訳であるが、ではそれはどんなものなのか。共産党内では昔からコミューン(共同体)が語源だと説明されているように、この言葉を使ったマルクスの頭にあったのは、その種の社会のことであろう。

 

 では、コミューンとは何かというと、英語のコモン(common)に当たるのだが、もともとはフランス語で「共通」、「共同」、「共有」などを意味する。そこから転じて、中世ヨーロッパでは、領主から「住民による自治を許された都市」を指していた。このことから、ヨーロッパの人が共産主義という言葉を聞いてイメージするのは、現代においては、資本の横暴に対して住民が協力しあって対抗するような社会、支え合う社会というようなものだろう。

 

 ところが、この日本では、共産主義という言葉(訳語)からそんなイメージを持つ日本人は皆無だと思う。日本人の多くが信じているのは、「産」を「共」にすることから、財産共有社会ということだ。共産党の説明を聞いて納得している人も、「生産手段」(工場など)を資本家が所有する社会でなく、社会全体が所有するものかという程度の認識にすぎない。しかし、もともとコミューンにはそんな意味はない。

 

 日本でも江戸時代の大阪・堺市などは、大名や武士の侵入から守られた都市であり、「自由・自治都市」として知られており、コミューンという言葉にふさわしい。ただし、そういう性格の都市を普遍的に言い表す日本語は生まれなかったようだし、その結果、外国から入ってきたコミューンという言葉が、その本来の意味にふさわしく訳されなかったということだろう。

 

 けれども、そういう経過があるならなおのこと、めざすべき社会像をあらわす言葉を探求することは意味があると感じる。全党的な討論の開始を期待するものである。その討論は、コミューンという言葉の意味を国民に伝えることになるので、実際に党名を変えるにせよ変えないにせよ、国民の理解を広げることにはなると思うのだ。

 

 もっと大事なアプローチがある。共産主義は資本主義とは別物の社会だと思われているが、資本主義のなかで共産主義の要素が成長していって、共産主義を準備するのである。それなら、マルクスの用語を使わずとも、資本主義の世界でわれわれが使っている概念、用語で共産主義を表現できるのではないかということだ。(続)